今日のグルーヴ〈394〉
アインシュタインが、死とはモーツァルトが聴けなくなることだ、と言った話は有名だが、言い得て妙である。 確かに、そのような側面はあるだろう。ただ、私はモーツァルトだけではないし、一部に限定したくない、というよりできない。 例えば、チャイコフスキー。たくさんの名曲が残されているが、中でも、三大バレエ曲。どの曲も素晴らしいが、一つ挙げるとなると、私はやはり「白鳥の湖」になる。 白鳥の湖というと、ハイライト版で聴く方が圧倒的だと思うが、全曲を聴いた人がどのくらいいるのだろうか。圧倒的に少ないと思う。 白鳥の湖は、いわゆる有名な曲も素晴らしいが、実は、ほかに名曲がたくさんある。これらの隠れた名曲を聴かないで、一生を終えてしまったとしたら、余計なお世話かもしれないが、これは痛恨の極みなのではないか。聴いてしまった人間の実感である。 とはいえ、かつて私も全曲を通して聴くことは、ほとんどなかった。昔あるとき、バレエの伴奏として演奏に参加したときに、ほぼ全曲を知ったのである。そういうきっかけでもないと、全曲を聴くことは、バレエの公演以外ではなかなかないと思われる。
今日のグルーヴ〈393〉
音楽の世界では、テクニック的に超一流の演奏家が必ず成功するとは限らない。 テクニックだけでなく、そこに人間性とか音楽性が求められるのであろう。 それはあらゆる世界で共通するところであると思うが、混迷を極めている政界でも言えるのではないか。 また、本来であれば、表舞台に立つべき人が、表に立つ前に、踏み台になって終わってしまうことも多々あるがそれは必要なことなのではないか。 コンピュータの世界では、パソコンの普及によってはじめてコンピュータが、広く人々に普及し、多くの人の草の根的な活動によって、その可能性や魅力や将来性が、爆発的に拡大された。 そのような本来の民主主義的な力が政界にあるだろうか。民主主義といっても、政界は一部の人の既得権のような状態になっている。世襲議員ばかりではないか。世襲議員がいけないとは限らないが、世襲議員だらけということは、それだけ新たに政治家になることの困難さを物語っているのである。 しかし国民は、一番大事な政治の世界に無関心であってはならないし、自ら政治信条を訴えるべきなのではないか。 そのツールが、ネット上にたくさんある
今日のグルーヴ〈392〉
ゴミの捨て方のガイドの冊子を改めて見た。すると驚いたことに、トランペットという単語が目に入ってきた。 しかも粗大ゴミ扱いされているのである。 近年ゴミの捨て方が大変ややこしくなっている。分かりにくいゴミの捨て方ガイドでは、分別の仕方、曜日がなかなか把握できない。しかも、たまにそれらが変更されてしまうから、ますます混乱する。 それはともかく、いったいトランペットを粗大ゴミとして捨てる人間がいるのだろうか。気になってトロンボーン、ホルン、クラリネット、フルートがないかどうかを調べてみたがなかった。 なぜトランペットが粗大ゴミの中に、楽器を代表して、掲載されているのか? まさかとは思ったが、バイオリンがあるかどうかを調べてみた。 驚愕である。 この世の中で、バイオリンを捨てる人が一体いるのであろうか? もし、そういう人間がいるのであれば、ホルンやクラリネットやフルートを捨てる人間もいるはずである。 まさかとは思ったが、ピアノという文字もあった。 このゴミ分別のガイドを作った人たちは、楽器はトランペットとバイオリンとピアノしかないと思っているのではないか
今日のグルーヴ〈390〉
江戸時代、鎖国政策によって、日本は世界から遅れをとったと言われているが、もし遅れというものあったとしたなら、ほぼ遅れを取り戻した今、再び“一種の鎖国政策”を行なった方がいいのではないかと思う今日この頃である。 鎖国と言っても、江戸時代も、完全に鎖国していたわけではなく、いくつかの国との交易は行なわれていた。つまり、日本を脅かそうとした国とは国交を断絶したわけで、世界から完全に孤立していたわけではない。 それでいいのではないか。日本を貶めようとする国と、無理矢理国交を継続しなくてもいいのではないか。喧嘩もしない。当たらず障らず。 近所付き合いでもおなじではないか。昔は、向こう三軒両隣、と言われたものだが、隣家に、たくさん料理やお菓子を作ったからといって、差し上げても、逆に迷惑がられるのがオチである。付き合い方が変化したのである。お互いに煩わしいのであれば、当たらず障らずのお付き合いでいいのではないか。 世界中のすべての国々と仲良く平和に、というのが理想かもしれないが、21世紀の前半において、人類はまだ、その段階に至っていないようである。心を偽って仲
今日のグルーヴ〈389〉
日本がオチの文化とすれば、イタリアは、伏線の文化である。 どちらも伏線とオチがあることには変わりないわけで、結局は同じ事を言っているのに過ぎないようにも思えるが、日本がオチ、つまり結果を重んじるのに対して、イタリアは伏線、つまり経過、過程を楽しむことを重んじているのではないか。 日本は、最初からオチが決まっていて、そのための伏線を張るのに対し、イタリアはもしかすると、いろいろ伏線を張って、どのオチになるのかは、その時次第、ということなのではないか。 例えば、日本の大喜利は、オチを決めておき、そのオチのために、伏線、つまり、~とかけて~と説く、わけである。全てはオチのための準備である。イタリアの場合、伏線を張ること自体が、一種のサービスであり、手当たり次第を張ることによって、あるいは伏線を修正することによって、オチが当たる確率を増やししているのではないか。 つまり、どこにオチようが、伏線を楽しむことの方が重要なのである。その結果、イタリアの方がオチの範囲、可能性が広く、オチが複数に拡がっていくのである。 結果にこだわるより、たとえ結果が出なくても、
今日のグルーヴ〈388〉
今世紀に入り、ネットの登場と相俟ってメディアの弱点が図らずも露見してしまったが、それはメディアの一部分であるジャーナリストにも繋がる話である。 ジャーナリズム、ジャーナリストと言えども、結局は他人が為した事件、事象で相撲を取っているだけで、ゼロから自分で生み出したオリジナルなものはない。その分、客観的な情報を伝達してくれればまだしも、どうやら殆どが主観である。 編集者もジャーナリストの仲間らしいが、所詮、編集者も何も生み出さない。様々な情報を集めて並べ替えるだけである。しかも、その集め方も偶然の産物であることが多く客観性に乏しい。 材料の集め方に客観性がなければ、料理しても栄養が偏る。ただし、自分好みの美味しいものを作ることはできるかもしれない。 問題なのは、何を載せ何を載せないのか、という部分である。何故なら何を載せていないのか、そこは読者には分からないからである。 そのような状態で、染まりやすい日本人はすぐに洗脳される。特に私はすぐに洗脳される。 例えば、戦後、ある時期、アメリカから大量の映画やドラマや入ってきたが、ドラマで出てきた一升瓶のよ
今日のグルーヴ〈387〉
政府とメディアとは、仲が良いより悪い方が、健全である。 政府とメディアとが一緒になれば、政府は簡単に世論を誘導することができる。しかし、国民の多くは、そのことに気がつきはじめている。 しかし、ネット、SNSの登場で、メディアに依存しなくてもすむ方法を政府も国民も持つことができた。 実際、メディアを信用せず、自ら発信している政治家も増えた。それは、むしろ健全なことなのではないか。 メディアは、媒体であるゆえに媒介となるものである。当然、そこにはフィルターがかかる。何を報道し何を報道しないか、それはメディア次第である。国民にはそれは分からない。 結局、お天道様以外、真実、事実を把握するものがないのであれば、人々はネット、SNSに事実を求めるだろう。 紙媒体のメディアの多くが、ネットを利用し始めて、動画を載せているが、これは自ら、紙媒体の限界を示しているようなものではないか。 また、テレビでは個人の動画を載せ始めているが、すでに、ネットやSNSでは、個人が動画を載せている。 新聞より即時性のあるテレビと言われたものだが、テレビよりもさらにネットは速い。
今日のグルーヴ〈386〉
マスコミも、商売であるし、スペースも限られているから、常に売れるニュースを優先させるのであろうが、とにかく国家存亡の危機のニュースからゴシップやスキャンダルまで、とにかく幅が広い。 これを懐が深いというのか、節操がないというのか、判断に苦しむところだが、とにかく結論がいつも見えないのは何故か。おそらく、ニュース・バリューが下がるからなのではないか。 起承転結の結の部分がいつもないような気がしてならない。そういえば、あの事件、結局どうなったのかな、というような話ばかりである。 事件の発端には、皆興味を持つが、それがその後、どう展開し、どのような結末を迎えるのか、そこまで興味が持続しない国民にも問題があるのではないか。しかし、昨今の緊張状態に対し、常に意識は持続しなくてはならないはずである。 この状況は楽曲を最初から聴いても、途中でやめてしまうのに等しい。我々は聴きだしたら最後まで全部聴く(はずである)。そうしないと気持ちが落ち着かない。 楽曲の造りでも、このようなことはあり得ない。(はずである)。例えば、ソナタ形式の楽曲は、弁証法的な論理の展開を楽
今日のグルーヴ〈385〉
言うは易く行うは難し 大学時代の音楽仲間から依頼されて、彼らがふだん活動している吹奏楽団のトラに行った。 吹奏楽は30年振りであるので、とても楽しみだった。 このコラムでは、現在の吹奏楽の練習法について、時々いろいろ書いた。交通整理のし過ぎによって、個性が失われる云々。 その考え方に今も変わりはないし、これからも主張したいが、個人的には、つまり私には交通整理が必要である、ということが判明した。 まるで言い訳にしかならないが、30年オーケストラに浸っていたので、吹奏楽の感覚をすっかり忘れてしまったようである。しかも、30年の間に、吹奏楽のアレンジ楽譜はどんどん難しい作品を扱うようになった。 グルーヴも当たり前の世界であるし、吹奏楽団の方々もグルーヴの概念は常識となっている。それは大変私にとっては喜ばしいことなのだが、私がグルーヴしなくてどうする、という話である。 言い訳ついでにさらに書くが、オーケストラのトランペットというのは、マーラーとか近代の作品は別として、ほとんど、全音符と二分音符と四分音符と八分音符くらいで、アタックの種類と伸ばしている音の
今日のグルーヴ〈384〉
ネットの様々なサイト、動画サイト等によって、我々は真の情報化時代を迎えた。と同時に、我々は常に難しい選択を強いられることになった。 我々は、自分でも気がつかないうちに、既存のメディアに依存して、自分で考えたり判断したりすることを放棄していたのではないだろうか。 時代を作ろうとしている既存のメディアにとって、そうなれば事は簡単である。世論を自由自在に操ることができるだろう。 しかし、ネットの登場によって、既存のメディアに対する疑問が少しずつ芽生えてきている。 既存のメディアで、報道内容が民主主義的に決められるとは思えないし、そもそも、そんなことをしている時間もないだろう。 しかし、実はそれでいいのではないか。偏向報道であろうが、何であろうが、一つのメディアからだけでなく、様々なメディアから偏向的な情報を知ることによって、我々はむしろ逆説的に偏向しない情報を得ることができるのではないだろうか。 それにプラスして様々なサイトによって、我々は、以前よりはるかに偏向しない情報を得ることができるようになったのではないか。 情報過多により、常に難しい判断や選択