今日のグルーヴ〈224〉
もうこの世の音楽において、メロディは出尽くしたと思われている節があるが、プロコフィエフによれば、音の組み合わせは無限にあるらしい。 実際、ポップス、映画音楽、歌謡の音楽は、とりあえず新曲が出続けている。 メロディが枯渇したと思われている理由の一つに、現代の作曲家が易しいメロディを書くことに照れまくっていることがあるような気がしてならない。 その点、歌謡の世界やポップスの世界ではむしろポピュラーなメロディを切望しているように思える。そもそも、難しいメロディや音楽を聴く聴衆は少ない。大多数の聴衆は易しいメロディを求めている。自分がすぐに歌える歌、口ずさめるメロディを本能的に求めているように思える。 現代作曲家がどう考えているのかはさておき、メロディ枯渇の打開策として、コンピュータを使って組み合わせる、という作業はすでに始まっているが、かたや、それを否定する考えもある。実際、単に音を組み合わせても99パーセントは、ゴミのようなものかもしれない。 しかし、コンピュータの実力は侮れないところまで来ている。コンピュータ将棋や囲碁のソフトは今や、善し悪しは別に
今日のグルーヴ〈223〉
稀勢の里が奇跡的な優勝のあと、彼の言動はまた一段と頼もしくなった。どんなことがあっても、平常心を保つ、そしてそのことの効用を体験した彼は、不動心を持たれたに違いない。 ところで、我々は実際、理屈では分かっていても、平常心、不動心を持つことが難しいことを知っている。分かっていてもできないことがあるのである。そこで窮余の策である。平常心、不動心を持っているふりをするのである。 演奏会等の本番でとてつもなく緊張することがある。緊張の原因が、練習不足などの理由が分かっている場合もあるが、訳も分からず、突然緊張したり、あがったりすることがある。その時に、焦ってはいけない。 緊張していないふりをするのである。これも意外と難しいが、本当に緊張から脱出させることよりも優しい。 そしてこれが意外と効果的なのである。昔から、何事も形から入れ、という教えがある。中身がなくとも形があれば、そのうち中身も入ってくるということなのだろう。中身が先か形が先か、順番などどちらでもいい。 しかし、それも分かっていても素直にできないときもある。ふりをするどころではない、ということも
今日のグルーヴ〈222〉
熱しやすく冷めやすい国民性ゆえか、熱病のように国会では一つのテーマが議論されているが、こんなに国会や委員会等の貴重な時間を使って良いのだろうか。日本の将来を決定的に左右する問題、もっと議論しなければならない問題は他に山ほどあるのではないか。 問題それぞれに優先順位というのはつけにくいが、景気、所得格差、税、憲法、領土、原発、温暖化、少子化、年金…、一つ一つが重すぎる問題である。 国会や委員会というのはパフォーマンスや喧嘩の場ではないはずだ。もっとクリエイティヴな質問や議論をするべきなのではないか。 ところで、今や国民は、マスコミや評論家の意見に先導されることはだんだんなくなってきている。ネット社会が発達したおかげで、マスコミを国民は無闇に信用しなくなってきていることは確かだ。 テレビだけでなく、ネット動画等、自らの耳で聞き、印象を持ち、判断をするようになってきているからだ。 ネットの情報とマスコミとの情報との違いに、国民は敏感になってきている。そもそも広告を無視できないマスコミに客観性を求めるのは土台無理である。 商業雑誌をやってきた経験だが、書
今日のグルーヴ〈221〉
グルーヴを生み出すものには、舞曲、ダンス、バレエがある。 チャイコフスキーの三大バレエは、いずれも美しいメロディ、魅力的なメロディ、バラード満載であるが、チャイコフスキーの魅力はリズムにある。そしてグルーヴにある。やはり根底にあるのがバレエであるからだろう。 クラシック演奏が眠い時、それはグルーヴ感がないから、ということは何度も言ってきた。しかし、根底に、舞曲の習慣、文化がなければ、いくら頑張って演奏してもどうにもならないのではないか。 バッハの無伴奏作品も舞曲であるのに、それを意識して演奏していないのではないか、と思う演奏が多々ある。 日本の教育に舞曲がほとんどないのは問題である。若者はヒップホップ、ディスコ、ロックダンスへと向かい、当然、ロックの世界の文化は充実している。 少なくとも、ソシアルダンスのいくつか、ワルツくらいは教養として学校のカリキュラムに入れるべきなのではないか。日本舞踊でもいい。 子供の頃、阿波踊りを踊ったことがあるが、踊りは人間のグルーヴの基本であることを本能的に感じたものだ(その頃、グルーヴという概念は知らなかったが)。
今日のグルーヴ〈220〉
ソフィスティケイト(洗練)の危険性 プロとアマとは何が違うのか。それは僅かにレベルの差と言われた方がいる。僅かなレベルの差、という表現は言い得て妙である。私は、ここに一つ付け加えたい。 ソフィスティケイト(洗練)の差である、と。 ただし洗練されていることが良いとは限らない。洗練された結果、つまらないものになってしまう可能性はある。その理由は後述する。 たいていというか、ほぼすべての作曲家、音楽家は、国民、民衆から題材やヒントを得ている。民謡、民族音楽、教会音楽、軍楽隊…等、それらをヒントにし、クリエイトし、ソフィスティケイトさせることが音楽家のテーマであるに違いない。 実験的にオリジナルの音楽を発明した人、オリジナルの音楽をクリエイトしたという人も、多かれ少なかれ、民衆の音楽から影響は受けているはずである。 明治時代、小説家らによって行なわれた言文一致運動も、実験と言えば実験でありソフィスティケイトである。 音楽も言語も民衆のものが題材になり、それが新しい音楽、言語へと展開させていく。これこそが、作曲家、音楽家、演奏家、小説家の仕事であるが、そこ
今日のグルーヴ〈219〉
金管楽器の場合、最低音からハイトーンまで、一つのアンブシュアで音作りをすると、楽器がppであろうがffであろうが“鳴っている”という実感を得られる。 また、これはあくまでも個人的な感覚であるが、楽器の材質がほどよく共鳴し振動しているのを感じられ、またアンブシュアにも心地良いレスポンスがあるので、この奏法で良いのだ、という確信が得られる。 また、常に同じアンブシュアなので、どんな音域でも、またいきなりハイトーンから演奏することになっても、まるで外す気がしない。これは、金管楽器奏者にとっては永遠の夢である。ミスタッチを絶対にしないピアニストのようなものである。 さて、その問題のアンブシュアであるが、とにかく、簡単でなければいけない。リコーダーは誰が吹いても一応必ず音は出る。それくらい容易に音が出なければ意味がない。 ここからが問題である。顔かたち、体型が千差万別であるのと同じく、口や歯の状態も千差万別であるから、人によってアンブシュアは異なる、とは言いたくない。どのような状態であろうと、アンブシュア(の考え方)は共通である、と言いたい。 近年、女性の
今日のグルーヴ〈218〉
金管楽器のメソードは、音階練習にしても、アルペジオにしても、何にしてもほぼ、その楽器の最低音から書き始めている。それに対して、我々や先達は、比較的音の出しやすい音域から始めようとしてきた。 例えば、B管のトランペットの一番低い音は実音Fisであるから、メソードに書いてある音階練習もFis durとかから書いてあるが、その順番で練習しようとせず、その上の音域のB durくらいから始めることがほとんどである。 また、音階練習以前の音出しに関しても、音の出しやすいと思われる音域から始めて、だんだん高い方の音域に行ったり、低い方の音域に行ったりして、音出しを始めるのが殆どである。 しかし、この方法は、一見無理なく合理的な方法に思えるが、楽器が本来持っている音色や鳴りを損ないかねない。何故なら、金管楽器は倍音の楽器であるからだ。その原理を無視して、中途半端な音だしをするのでは管全体が共鳴しない。 そればかりか、ダブルアンブシュアを作らせ、その結果、音を外しやすいという、致命的な奏法を作りかねない。 最低音から音を作っていかないで、どうやって中音域や高音域で
今日のグルーヴ〈217〉
トランペット等の金管楽器の場合、大抵の人がダブル・アンブシュア(口の形が低音域と高音域とでは異なること)になるのであるが、どの音からアンブシュアが変わるのかは、人それぞれである。 その事と、歌における地声からファルセットへ移行するのと事情が似ているような気がしてならない。実際、音楽史上に残る世紀のトランペット奏者、モーリス・アンドレは、ハイ・トーンは、裏声のように出す、と言っていた。 オペラに関してもポップスに関しても、その発声の種類と理論を語ることは私にはできない。ただ、話を簡単にするために大雑把で恐縮だが、歌の場合、大きく分けて、地声とファルセットの二つがあることを前提として話を進めたい。 オペラのソプラノは、ほぼすべての音域を同じ発声、唱法で歌っていることになる。 テノールの場合も、ほぼすべての音域を同じ発声、唱法で歌っていることになる。 理想としては、地声ですべての音域を歌いきる、ファルセットですべての音域を歌いきる、そのように私は勝手に思っているが、オペラとポップとの場合では、話が変わってくるし、音色の使い分けを意図して、地声とファルセ
今日のグルーヴ〈216〉
精神的脱力奏法 演奏の本番においては、どうしても力むものであるが、力んでいいことは一つもないことは誰もが経験していることである。 そこで、意図的に肉体的に脱力をするのであるが(脱力の方法はいろいろある)、これが意外と勇気のいることである。しかし、一度冒険する価値はあると私は思う。 さて、肉体的に脱力して成功体験をすれば、おそらくその後の演奏は世界が変わったようになるだろう。しかし、肉体的にコントロールできても、精神的な部分がコントロールできなければ、まだ不十分である。 肉体的にコントロールすることを覚えたならば、それを精神的にも応用することができるのではないだろうか。 精神的な脱力? 心をコントロールすることは意外と難しい。こう思ってはいけない、こう言ってはいけない、と分かっていても、コントロールできない部分がどうしてもある。 ではどうしたらよいか。 ここにもテクニックがある。 もう一人の自分を作ることである。 もう一人の自分に、自分を観察させるのである。 これだけで十分である。 今日もグルーヴィーな一日を!
今日のグルーヴ〈215〉
グルーヴとは積極性と同義であると考える。 グルーヴは本来誰でも持っているものである。であるから、グルーヴを知らない人、認識していない人でも、演奏にはグルーヴがあるはずである。 にも関わらずグルーヴが感じられない演奏が多々あるということは、環境や複雑な世の中のために、押し込められてしまっているのではないか、と私は考える。 勝敗がつくスポーツや試合であるならば、相手からノリのグルーヴを押し込められることは多々ある。しかし音楽は試合ではないし、勝敗でもないから誰からもグルーヴが押し込められるはずはない。 であるがゆえにグルーヴをテクニックとして認識し、捉え、解放するテクニックが必要ではないだろうか。 また、グルーヴを認識している人でも、今日はノリが悪いな、と感じる日もある。であるがゆえに、グルーヴを解放するテクニックが必要であると考える。 何か、ノラない時、調子が悪い時、消極的になりがちであるが、海外の演奏家の多くは、こういう時や、アンラッキーな時にこそ、意図的に、あるいは本能的に積極性を増すことを心がける。これは精神的なテクニックである。つまり無念無