今日のグルーヴ〈468〉
今、この楽曲が聴きたい、と思ったときに即座に聴くことができるようになったのは、あるいは音楽は聴きたいときに聴く、という当たり前のことが可能になったのは、スマホのおかげである。 スマホによって、聴きたい曲を即座に検索して聴くことできるようになった。そして、ここからが重要なのであるが、我々は繰り返し機能を使うことによって、その後、何もせずに同じ曲を繰り返して何度でも聴くことができるようになった。 繰り返し楽曲を聴く癖がある人にとって、スマホほど便利なものはいまのところ他に見当たらない。 コンサートには臨場感という最大の魅力があるが、残念なことに、何度も同じ楽曲を聴くことができない。 アンコールというのは、かつて気に入った楽曲の再演であった。そのことが示すように、聴衆は気に入った曲を本当は繰り返し聴きたがっているはずである。 スマホとCloud音楽の登場によって、我々は隙間時間に繰り返し気に入った楽曲を聴くことができるようになった。 その時々に填まる楽曲があり、それを何度も繰り返し聴く癖がある私はまさにこの機能を満喫している。 何故、繰り返し聴きたいの
今日のグルーヴ〈467〉
役者と俳優との違いは何か、ということをいつも考えるが、演奏者も、役者タイプと俳優タイプに分かれるような気がする。 役者というのは、自分の個性を消し、様々な個性を演じ分けられる人であり、対して俳優は、様々な個性を演じつつも、自分の個性を活かしている。私小説的である。 とすれば、役者タイプの演奏者というのは、作曲家、時代、様式等を演奏し分ける人、ということになるのだろう。 俳優タイプの演奏者というのは、どんな作品でも、自分のスタイルで演奏する人、ということになるのだろう。 しかし、どちらにしても厳密な境などはなく、どちらに比重がかかっているか、ということになるのだろう。 どんな役でも演じる役者というのは、役者を自負する人にとっては、人生を何倍も味わっているという点で楽しいに違いない。 どんな楽曲でも演奏できる演奏者も同様で、バロックからコンテンポラリーまで、あらゆる楽曲を演奏できる機会のある人も同様である。 しかし、己自身の個性を表現しようとするならば、自分に合った楽曲を活用するか、オリジナルの楽曲を自ら作曲する、ということになるのだろう。 俳優タイ
今日のグルーヴ〈466〉
根源的な話であるが、人は何故、演奏を自分以外の人に聴いてもらおうとするのだろうか。 多くは、習い事として子供の頃に音楽を始め、楽器を始めたりするわけであるから、自我に目覚めていたわけでないだろう。ゆえに最初から人に聴いてもらいたいという欲求があったとしても希薄である。 気がついたら楽器をやっていた、というように幼少から楽器を始めた人にとってはなおさらで、演奏すること自体が生活の一部で、最初のうちは理念でも信念でもない。 この場合、自分の演奏をどうしても聴いてもらいたいという欲求は、後に芽生えるかもしれないが、多くは演奏=仕事である。 あるいは、感動を受けた演奏や演奏家に憧れて、自分も、ということになる場合がある。何故か聴衆のままであり続けない。 しかし、前者も後者も、おそらくある時期に、音楽的な自我に目覚め、そこで演奏を続けるか、やめるかの選択をすることになる。 この自我も、一気に高見に上り詰めることもあれば、徐々に上っていく場合もある。 共通しているのは、自我に目覚めれば、自分の演奏を人に聴いてもらおうとする欲求が強くなるところである。さて、そ
今日のグルーヴ〈465〉
スポーツの世界では、時々、腑に落ちないというか、理不尽というか、不条理な事が起こる。 例えば、かつて大鵬が連勝を止められた一番であるが、ビデオを見る限り明らかに、相手力士の足が先に出ていたし、インタヴューでも、足が出たことは認めていた。にもかかわらず、大鵬は負けになった。この一番がきっかけで、物言いにビデオが導入されることになった因縁の一番であるが、国民の誰もが見ていて、事実は明らかなのに、判定が覆らないのは不条理そのものではないか。 初代貴乃花が、北の富士に浴びせ倒されそうになった時、ひねり腰でうっちゃりのように北の富士に先に手をつかせた一番、行司は、貴乃花に軍配を上げたが、勝負審判が、北の富士の手は、かばい手であると判断して、行司差し違えにした。行司は、絶対に自信があったのだろう。あり得ないほどの剣幕で時間をかけて、後に涙の抗議と言われるほどの、命がけの説明を行なったが、結局判定は、行司差し違えという結論で終わったのである。 何年か前から、制限時間いっぱいでの立会いで、両手をつく蹲踞でなくてはいけないということになり、それが金科玉条のごとく言
今日のグルーヴ〈464〉
クラシックファンのヒエラルキーはますます歪になる一方である。子供の頃からの足が地に着いたファンは減る一方であるし、教養主義的な高齢の聴衆はファンとは言えない。 まず、子供の頃からクラシック・ファンが育たないのは何故か。現代の親自体がクラシック・ファンでなくロックやポップスファンであったりするから、そもそもクラシックを聴く環境がない。 では、我々が子供の頃、クラシックを聴く環境があったかというと、私の親を思い出しても特段のクラシックファンとは思えない。私の場合、学校音楽の影響が大きかった。 常日頃、学校音楽に対して批判的なことを書いているが、実は学校の音楽、中でも音楽鑑賞は、クラシックを紹介してくれていたのである。勿論、いま思えば決して満足いくような紹介の仕方ではなかったが、それでも入り口の一つではあった。 故に、音楽の授業は、音楽鑑賞だけにしてほしいと思ったくらいであった。学校では、放送部にたくさんのレコードがあった。これも大きかった。 結局、環境次第である。私は、音楽家へ進むだけの環境はなかったかもしれないが、クラシックファンになる環境はあった
今日のグルーヴ〈463〉
子供が受ける教育の環境というのは、その後の人生を決定的にするだけに恐ろしい。これはもうほとんど運に近い。 例えば、私は、ずっと音楽の世界に関わってきたが、幼少の頃に音楽の英才教育という存在の情報を知らないというか、まるで耳に入ってこない環境であったから、まだ頭が柔軟な時期に専門的な教育を受けてこなかったことに残念な気持ちはある。 特に、幼少から専門的な音楽教育を受け、音感やソルフェージュ能力が高く、音楽的知識や見識を幅広く持つ妻を見れば、その歴然とした差に、教育の力の凄さに唖然とする思いである。 私自身、音楽そのものはずっと好きだったが、幼少の頃に耳に入ってきた音楽は、クラシックではなかったので、クラシックは徐々に好きになっていったという感じである。いまだに、好きになり続けていることに有り難い思いである。 思想的には、我々の世代は、戦後の自虐史観を最も叩き込まれたので、ほぼほぼ左寄りの思想の持ち主が多かった。ある中学校では、極左の先生ばかりだったので、そこの中学生はほぼ例外なく極左の思想の持ち主だった。日の丸と君が代を否定する世代である。 私自身
今日のグルーヴ〈462〉
将棋の世界では、中学生であろうと、プロであれば、年配者からも、藤井さん、藤井先生と呼ばれる。 一昨年から、将棋の世界では、中学生の藤井聡太四段の話題でもちきりであるが、昨日は、佐藤天彦名人に勝利した。 対局後の記者会見では、藤井四段に対して、勿論、さん付け、先生付けで、しかも敬語も使われていた。 年齢的にも実力的にも超ベテランであっても、負ければ、中学生に対して「負けました」と頭を下げる。 これほど、実力と勝ち負けがものをいう世界は他にあるのだろうか。何十年もの実績を持とうが、勝負の世界では何の容赦もない。凄い世界である。 将棋もこのような最高レベルの世界になれば、勝者も敗者もすこぶる謙虚である。勿論、勝てば嬉しいだろうが、一歩間違えば、負けてしまうぎりぎりの世界では、勝者は、敗者に対して謙虚でリスペクトしている。 結果は、はっきり白黒つけられる世界ではあるが、その白黒は紙一重であるからだろう。 そういう意味では、将棋の対局は、単なる勝負というよりも、二人であらたな世界へのルートを築き上げていく作業のように思える。 一般社会では、これほど白黒はっ
今日のグルーヴ〈461〉
グルーヴ感というのは、元々誰にも身に備わっているものであるに違いない。ただ、人によってその表現が、スムーズに出る人もいれば、出ない人もいる、ということだけであるように思う。 本来、誰もが持っているものであるにも関わらず、それが出ないというのは、実に勿体ない。では、本来のグルーヴ感を出すには、どのようにすれば良いかという事なのであるが、これには様々な方法があるように思う。 このコラムでは、終始一貫して、そのことを書き続けてきたわけであるし、それは私自身の問題意識でもあるが、本来持っているものを何が堰き止めているか、その原因を突き止めるのも重要である。 例えば、表現すること自体に衒いを感じるために自ら堰き止めてしまう、ということがある。しかし、だとしたら、そもそも音楽をすること自体やめた方がいい。何かを表現すること自体やめた方が良い。 先日、娘のダンスを見て、非常に刺激を受けた。そもそも、ダンスすること自体、グルーヴそのもので、舞踊による体感というのは、音楽のグルーヴ感に即結合するものである。 ゆえに舞踊はグルーヴ感を身につける最高の手段である。しか
今日のグルーヴ〈460〉
ずっと昔からドーピングはあったのだろうが、これが表面化してからも、オリンピックをはじめとするあらゆるスポーツのイベントでは、毎回のようにドーピングの問題がつきまとう。 しかし、誰よりも強く、速く、ということを突き詰めていけば、世界レベルの人達にとっては、いけないと思ってもドーピングに手を出しかねないだろう。 世界新記録とか世界一のレベルにある人達の中から、どうやって抜きん出るのか。おそらくあらゆる手段をすでに実践しているのだろう。そうなると、あとは、ドーピングに頼るしかない、という当然の成り行きになる。 この時点で、スポーツマンシップはなくなるどころか、いったい何のためにスポーツをやっているのか、というそもそも論に戻りかねない。 世界新記録という未知の世界に行ってみたい、という気持ちは分かる。しかし、スポーツの記録というのは、どこかで限界があるのではないか。例えば、陸上100メートルの記録は限界に近いように思える。走り幅跳びもすでに限界なのではないか。 その段階で、いったい何のために世界一になろうとするのだろう。世界一になれなかった大多数の人にい
今日のグルーヴ〈459〉
成人式に晴れ着が届かなかった事件は、将来成人式を迎える娘のことを思うと、人ごとではなく心が痛む。歳をとってからの子供なのでなおさらである。 しかし成人式に限らず、あらゆるイヴェントに対する価値観は、人それぞれである。男であるから自分のことは比較にならないが、私は成人式には出なかった。というより、前の晩に飲み過ぎて潰れたのである。 親からはネクタイをプレゼントされていたが、最初から出るつもりはなかった。潰れたのは確信犯である。大学生に見えるまで浪人しようかと思ったくらい元々童顔だったから出たくはなかったこともあるが、そもそもあくまでも私にとってであるが、成人式というものに価値観を見出してなかった。疑問にすら思っていた。 法的なことも含めて、一応の区切りではあると思うが、それだけのことである。人間的に何か成長したという実感もなく、成人というのは何か違和感を感じていた。 成人というのは、できあがった人間というイメージがあったが、そもそも、成人しようが、不惑を迎えようが、定年を迎えようが、聖人君子にはならない、ということを知れば、成人式というのは、やはり