今日のグルーヴ〈166〉
DTPが登場する前後、コンピュータの世界は疾風怒濤の時代であった。 当時1990年前後からのことであるが、パソコンはNECの98、Mac、AT互換機が主流であった。 初期設定も大変で、パソコンに詳しい学生が初期設定のアルバイトをしていたくらいである。 MS-DOSのパソコンではコマンドを駆使してバッチ・ファイルを書いたり、立ち上げるだけで、一苦労だった。 Macでは、一足早くWYSIWYGの世界を実現していたが、DOSの方ではWindowsの登場まで待たないといけなかった。 この当時は、混沌としていた時代で、Macでは、すでにDTPが始まっていたが、処理能力としてはいまいちだった。 ゆえに、横目でちらちらとMacのDTPを見ながら、私自身は、98ノートで原稿を打ち、パソコン通信で印刷所や写植屋さんに原稿を送っていたのである。これだけでも、かなりの変革であった。 しかし、すべては過渡期であった。 1990年代半ばのパワーマックの登場でDTPの一応の環境が整ったのである。 これはグーテンベルクの活版印刷以来の一大革命であった。 それまで、印刷物や本と
今日のグルーヴ〈165〉
写真植字(写植)による活字が文字組され、オフセット印刷になってからは、手が真っ黒になることもないため、女性も植字の仕事をすることができるようになった。 写植の文字は書体の種類も豊富で、いろいろなイメージを実現しやすかった。活版印刷はゴチック体と明朝体の2種類だけだった。 ゆえに写植の登場で、誌面は、実に美しく、ヴァラエティに富んだものになった。あまりにも書体の種類が多いので、ついいろいろ使ってみたくなるのであるが、それは逆にデザインのセンスを問われることであった。 また写植の文字組は詰め打ちが美しく、読みやすく美しい文字面であった。 私が最初に経験した活版印刷は、活字の変化に乏しいものだったので、タイトルなどは、写植の書体を使って、凸版にしたりしたものだった。 しかし、写植も、電算写植が出現する前、校正するのが困難であった。 写真植字というのは、つまり、活字が写真のように紙に印字されているわけであるから、一文字直すのにも、そこだけ薄く切って剥がして、別に印字した活字を貼り込むという、いかにもアナクロの世界であった。下手に貼ると曲がってしまうのであ
今日のグルーヴ〈164〉
15世紀のグーテンベルクの活版印刷が原理としてはつい最近(20世紀後半)まで主流だったわけで、オフセット印刷等もあったとはいえ、意外と、印刷技術の進化と普及は遅かったのである。 本は活字だけでなく、写真や図表等もあるわけで、それらは、樹脂凸版や金属凸版を使用した。 写真の場合、写真にトレーシング・ペーパーをかけて、鉛筆で縮小拡大を指示し、それを製造工場へ持って行って樹脂凸版や金属凸版を作ってもらう。 私は、若い頃、その工場へ写真原稿を届けに行ったり、できあがった凸版を印刷所に届けに行ったりしたものだ。 そして、職人さんが、編集者がレイアウトしたものを見て文字、写真、図表等を組んでいく。 それ自体が、印刷の時の版となる。 B5サイズの1ページでも、亜鉛でできた活字の集まり(組み版)であるから、相当に重い。そういうものが100ページ以上あったら、100個もの組み版があるわけで、置き場所にも困るくらいである。 そして印刷した後は、紙型というものに残す以外、保存することはできないので、ばらばらに解体する。解体された活字は溶かされて、また新たな活字が作られ
今日のグルーヴ〈163〉
活字文化に関して、私は活版印刷の時代から経験しているが、この30年は疾風怒濤の時代である。 振り返ってみて、これからの活字文化の方向性を探ってみたい。 今日はその一回目。 活版印刷は、今ではほとんど行なわれていないが、今思うと懐かしい。 思い出すのは、活版印刷の文選・植字工さんの職人芸である。 活版印刷の活字は、亜鉛でできたはんこのようなものであるが、たくさんの活字が収納された棚から必要な文字を選び出し(文選)、それを組んでいく(植字) という作業をする。 とにかく、手間がかかる作業で、アルファベットならいざ知らず、日本語のようにたくさんの漢字があると、どこに何の文字があるのか、ベテランになると、体で覚えているくらいである。 かつては、宮沢賢治もアルバイトで文選工をやっていた。 当時、原稿は原稿用紙に書いて印刷所に渡し、職人さんその原稿を見て、文選し、植字するのである。 その仕事をしやすくするために、つまり原稿を持ちやすくするために、原稿用紙は400字詰めでなく、200字詰めのB5サイズを作った。 文選・植字には時間がかかるため、原稿をなるべく早
今日のグルーヴ〈162〉
アッコルド青木の今日のグルーヴ 〈162〉 2017/1/28 20年ほど前に、電線、電柱の醜悪なことを書いたがそれから改善されるどころか、ますます醜悪さが増している。 電線ですら数種類あり、そのほかに電話線、有線、光ケーブル…蜘蛛の巣状態である。 そもそも電柱は、危ない。日本の狭い道に電柱を頻繁に立てたら、歩行者も車も、常に電柱を気にしなくてはならない。 日本全国で3000万本以上の電柱があるらしい。 都市部では、地中化している所もあるが、本当にすっきり美しい。しかし、数パーセントにしか過ぎない。 1964年の東京オリンピック時に世界からのお客様のために東京から醜悪なゴミ箱が一掃された。 今からでは、2020年の東京オリンピックには、まったく間に合わないが、美しい日本を目指すのならば、少しずつでも、地中化を進めるべきではないだろうか。 ロンドンやパリ、ウィーンといった主要都市は昔から電柱の地中化は常識だったらしい。アジアの主要都市も、地中化が始まっている。 このままでは、世界からの笑いものになってしまう。 無電柱化の動きはすでにあるが、早く、大
今日のグルーヴ〈161〉
19年ぶりの 日本人の横綱が誕生。 私は、千代の富士のファンだった。 あのスピードは、正にグルーヴ感 満点だった。 あのような切れ味鋭い相撲は 最近ほとんど見ることができない。 そもそも、立ち会いが遅い。 待ったなし、と行司が言ってから 本当にぶつかるまでの長いこと。 そもそも、両手を着かなくなくては いけないというルールになってから このような立ち会いになってしまった。 両手を着いてからでは、立ち会いの 勢いが無くなるのではないだろうか。 両手を着くのでは、せーので 用意ドンとはならないから、 立ち会いが遅くなるのは当然である。 昔のように、制限時間いっぱい、 待ったなしになったら、 両手を着かないで、立ち会いを 行なって欲しい。 踏ん切りの悪い立ち合いは見たくない。 今日もグルーヴィーな一日を。
今日のグルーヴ〈160〉
私の体験では、 ブラインド・タッチは ローマ字入力であれば 一週間キーボードを見ないで 打つことが我慢できればできる。 ディスプレイだけを見て 打つのである。 打鍵しているときも、 常にディスプレイを 見ていなければならない。 そうしないと誤入力、誤変換に 気がつかないからである。 指はホームポジションにいつも 帰着している状態にしなければならない。 そうしないと、ブラインドで、任意の キーボードに指を行かせることが できないからである。 車の運転で、 ブレーキとアクセルを 踏み間違える事故が多発しているが、 その原因の一つとして、 足の位置がいわゆるホームポジションに 置かれていないからだ と私は思っている。 クラッチのある車だと、左足の位置は、 必然的に決まってくるから、 否応なしに、 ホームポジションが決まるから、 左足と右足との間隔の感覚が体感され 身につくのである。 クラッチのある車が主流だった時代、 ブレーキとアクセルを 踏み間違える事故 というのを聞いたことがない。 ホームポジションというのは、 ものすごく大事で、場合によっては 命
今日のグルーヴ〈159〉
アッコルド青木の今日のグルーヴ 〈159〉 2017/1/25 最近の記者会見を見ると 記者のノートパソコンの タイピングの音が大きい。 何十人もの人が、同じように 叩くから騒音に近い。 なんであんなに力一杯叩くのだろうか。 その昔、 まだパソコンが一人一台にまで 普及していない頃、 パソコンで仕事をしている人は 遊んでいるように思われていた。 そういう時代だった。 いまだに タイピングの音がしないと、 仕事をしていないように 思われるのだろうか。 力一杯キーボードを叩いたら、 仕事をしたという充実感に 浸ることができるのだろうか。 あんなに一心不乱に タイピングしていて、 会見の内容を吟味するゆとりが あるのだろうか。 いずれにしても、 タイピングの下手さ加減を 暴露しているようなものだ。 おそらくブラインド・タッチを やっていないから、キーボードの 文字が見えるように、手のひらを 高い位置に置き、そこから、打鍵 するものだから、無駄に力一杯 打鍵しているのだろう。 このタイピングを続けていると 肩は凝るし、下手をすると 腱鞘炎になりかねない。
今日のグルーヴ〈158〉
バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ& パルティータ、無伴奏チェロ組曲。 これらの作品は元々撥弦楽器の為に 書かれたのではないか。 セゴビアのギターを聴くと、 そのように言ってみたくなる。 バッハの無伴奏は、やはり、 ポリフォニックな作品であると感じる。 ヴァイオリンやチェロで感じる濁りや 押しつけがましさをまったく感じない。 押しつけがましい、と言うと誤解を まねくかもしれないが、楽器の原理上、 そうなりやすい、ということだ。 撥弦楽器は音が減衰し、 擦弦楽器は音が持続する。 その違いが演奏の違いをもたらす。 というわけで、この頃、歳のせいか、 無伴奏作品はギターの方が、 耳当たりがいい。 ところで、セゴビアは、 無伴奏においても 右手の位置を変えることによって ブリリアントな音色、 ドルチェな音色、 その中間の音色 を出している。 そしてヴィブラート、 撥弦楽器とは思えないような音の伸び それらを駆使して、 かなり頻繁に音色を使い分けている。 そしてグルーヴはもちろんのこと、 心を揺さぶる独特なテンポ・ルバート。 完全に楽譜から解放された演奏であ