今日のグルーヴ〈193〉
多くの演奏家は、アインザッツを完璧にしようとする。指揮の打点にぴったり合わせようとする。しかし、合わせようとして合うのと、結果的に合っている演奏とでは、似て非なるものがある。 特に管楽器奏者に、アインザッツの呪縛は、強迫観念のようにまとわりついている。私も当然のように思っていた。しかし、合わせようとしてはいけない。結果として合っている、という状態であるべきである。 何故なら、合わせようとする行為は不自然であるからだ。何も考えず必然として合っているべきである。 指揮があろうとなかろうと、それは同じであるはずだ。 もっと言えばアインザッツが完璧である必要があるのであろうか。完璧がベストならば、機械にやらせた方が良い。 すべての音楽が、アインザッツが完璧に揃っていなければいけない理由は無い。アインザッツがずれている方がいい場合もある。 いわゆるふつうのアンサンブルでは、息を合わせるために、文字通り息を吸って吐いてアインザッツを合わせるわけであるが、最初から息を吐き続けているだけのアンサンブルを観たことがある。 いったいどこでお互い音を出すのか、どうやっ
今日のグルーヴ〈192〉
ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者は顎関節症になりやすい。顎で楽器を挟んで弾くために、噛み締め、その結果、顎のずれが生じ、それが不自然な姿勢につながり、頭痛や首の懲り、肩こり、腰の痛み吐き気など、不定愁訴と言われる症状にまで進行しかねないのである。 歯の問題は身体全体へ影響を及ぼす。噛み締めの問題から顎関節症、そして不定愁訴へとつながり、楽器を弾くうえで支障が出るだけでなく、健康そのものにまで影響を与えるので、決して安易に考えてはいけない。 実際、ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者で身体の不調に悩む人は多い。というか潜在的にはほとんどの人が何かしらの問題を持っているのではないだろうか。 小川学先生は、25年以上も前からその警鐘を鳴らし続けている。小川先生ご自身、ヴィオラ奏者であるので、ご自身の体験に裏付けられた予防、治療が展開されているのである。 管楽器奏者のための治療は根本俊男先生が展開されていたが、弦楽器奏者のための治療を展開されている小川先生との出会いで、管楽器奏者と弦楽器奏者、つまりほぼあらゆる楽器奏者にとって歯の問題は必須の問題であることを気づ
今日のグルーヴ〈191〉
小川先生の治療との出会いは、カルチャーショック以上の衝撃であった。もし、治療を受けていなかったら、私はとっくの昔にトランペットを吹くことをやめていたかもしれない。 小川 学先生にお会いする以前に、私は「すべての管楽器奏者へ―ある歯科医の提言」で、管楽器奏者の歯の重要性を説かれた歯科医の根本俊男先生にお会いしていて、治療も受けたことがあった。 余談だが、根本先生のクリニックは横須賀と遠く、私は取材と称して治療に行ったものだった。 その根本先生のクリニックへ小川先生をお連れしたこともある。根本先生と小川先生とは、お互いの理念に共感を持たれ話は大いに盛り上がった。 その後、私は取材と連載原稿の打ち合わせの傍ら、小川先生から、歯の治療とトランペットのための歯の治療を受け続けてきたのであるが、そのおかげで私のトランペットは劇的に変化したのである。 小川先生には、息子もお世話になった。息子が中学生の頃、いじめに遭って、前歯を痛めたことがあったが、小川先生の治療のおかげで、息子は無事ホルンを吹き続けている。 歯の状態は、プロの管楽器奏者にとっては死活問題である
今日のグルーヴ〈190〉
今日は、トランペットの大恩人、長年お世話になっている歯科医の小川学先生の所へ歯の治療の為に久しぶりに伺った。 小川先生には歯の治療だけでなく、取材や原稿で大変お世話になった。 最初、弦楽器奏者の顎関節症のことで、小川先生の研究や治療法を取材し、その後、連載原稿を書いて戴いたりしていたのだが、先生とお話をしているうちに、トランペットを吹く私はすぐに、先生の理念は、管楽器奏者にとっても大変重要であることに気づいた。 (参照:http://www001.upp.so-net.ne.jp/ogawashika/greeting.html) 核心は明日へ。 (つづく) 今日もグルーヴィーな一日を。
今日のグルーヴ〈189〉
女性のグルーヴ感について。 女性の書く文体とロジックには独特なものがある。 書きたいことがあるのだが、どうも上手く文章が整理されない、表現ができないさらに考えも整理できないとき、女性の意見を聞くと、すっきり整理されることがよくある。 女性は、長い文章を書くことが得意である。延々と文章が終わらないことがよくある。しかし、長くてもロジックがしっかりしているのですっきり理解できる。 しかも、源氏物語に代表されるような独特のグルーヴ感がある。これは男には真似できない。 おそらく楽曲におけるフレーズ感も、グルーヴ感も、女性の文章のそれとある意味、共通しているのではないだろうか。 女性の文体、フレーズ感、グルーヴ感というのは、男では生み出すことはできない。しかし、いったん、それらを知ってしまえば、あとの真似、創作はできるかもしれない。 私は自分の書きたいことがうまく表現できないことが多々ある。その時に、かみさんに相談すると、何かしらの言葉のチョイスのヒントを得られることがよくある。 その結果「そう、そう、そう言いたかったのだ」となって実にすっきりする。 とい
今日のグルーヴ〈188〉
長いようで短いようで長い人生には、いろいろなことがある。昨日の記者会見で皇太子殿下が、国民と苦楽を共に…と仰せられた。目から鱗のような感慨を覚えた。そのお言葉が、国や国民、そして人生そのものであることが改めて感じられた。 すべてに理由があるように思えてきた。 ジャズの起源には諸説があるが、アフリカから奴隷としてアメリカに連れてこられた人達が、日々の苦しみから、あまりにも強烈に神に祈っているうちに、それがジャズになっていった、という説があるが、私はその説に共感を覚える。 ロックは若者の社会へ逆らいが一つの起源である。 ベートーヴェンの音楽も、貴族社会からの恩恵を受けつつも、市民革命を師事し共和主義者であったベートーヴェンの苦悩を考えると、まさにロックであると言いたい。 喜怒哀楽、原体験、無駄なことは一つもない。あり得ないことだが、この世が楽ばかりになってしまったら、人類の進歩というものがなくなるのではないか。 苦楽があるからこそ、音楽が誕生し、芸術が誕生し、生活への糧としていったのだろう。 そこで、結論。 グルーヴとは生活感そのものである。 今日も
今日のグルーヴ〈187〉
玉木宏樹先生は、固定ド絶対音感教育を受けた方だが、百害あって一利なしとまで言われて否定していた。 固定ドは様々な楽曲を演奏するための器楽奏者の妥協策であるから否定はできない。 しかし絶対音感教育で作られた音感は、いつか修正しないと演奏することが困難になる。 絶対音感を持っていることを自負している演奏家はたくさんいる。 しかし、実際の演奏では、おそらく意図的にせよ無意識的にせよ、絶対音感は横において演奏しているのではないだろうか。そうでないと演奏できないからだ。 厳格な絶対音感を持ってしまうと、多少の音程のズレが気持ち悪くなり、アンサンブルをすることは困難である。平均律の絶対音感であるからだ。 それから、チューニングのAが、442Hzでないと、気持ち悪いとなってしまったら、444や440の国では演奏できない。修正するのにとてつもない時間と忍耐を要する。 仮に442だけで演奏することができたにしても、そもそも耳に柔軟性がないからアンサンブルができなくなる。やったとしても、濁った聴くに堪えないものになりかねない。 そもそも、人間が歌を歌うときに、絶対音
今日のグルーヴ〈186〉
玉木宏樹先生にとって、純正律の啓蒙は玉木ワールドの一つであった。ところが革命的音階練習はピタゴラス音律で演奏しなければならない。当然と言えば、当然であるが、音楽は、そう簡単に話がすむ世界ではない。そこが、音楽の難しいところでもあり奥深いところでもあり、魅力でもある。 私の結論であるが、純正律にこだわってはいけない。ただし純正の和音は活用すべきものである。その純正の和音もここぞというときに取っておいた方が良い。 では普段はどうするのか。 その前に、そもそも純正の和音もピタゴラス音律もその他の音律も、完璧に演奏することなどできない。数字的に完璧にするのであれば機械に任せるしかない。 所詮、限りなく純正の和音に近づけていく、ピタゴラス音律に近づけていくことくらいしかできないはずである。数字的に完璧が良いかどうかという話もある。 音律に関しては、17~18世紀あたりでは様々なものがあった。当時の音楽家は様々な苦心をしていろいろ作り出した。しかし、結局は、ほとんどが残らなかった。かろうじて、純正律とピタゴラス音律がなんとなく残り、大半は平均律の世界である。
今日のグルーヴ〈185〉
ヴァイオリニストで作曲家の玉木宏樹さんは、いつも何かに怒っていた。音楽界のことに関しても、世の中のことに関しても。ただ、考えてみればごくごく当然の当たり前の真理をいつも彼は言っていたのであるが、当然の当たり前のことが通用しないのが、世の常である。 そういう世の中やクラシック音楽界に嫌気が差したのであろう。若い頃、早々にクラシック界から彼はドロップアウトして、ポップスやジャズやロック他の世界で、彼は自らの世界を、言わば「玉木ワールド」を築いていくのである。 劇伴や、ドラマのテーマも何千曲と作曲されていった。「大江戸捜査網」のテーマ音楽も作曲された。大江戸捜査網は、よく観たものだが、あまりにも玉木先生のテーマの印象が強すぎて、中身はほとんど印象に残っていない。 才能、という言葉を使うならば、彼こそその言葉を使うにふさわしい音楽家であった。 ある日の午後、玉木先生の事務所で取材をしていたとき、その晩、玉木先生がコンサートの予定があることを知った。あまりにものんびりしているので、私は思わず「練習しなくていいんですか!?」と聞いてしまった。 この「練習」と
今日のグルーヴ〈184〉
ヴァイオリニストで作曲家の故・玉木宏樹氏のことは、何度となく書いてきた。彼は自ら「七色のヴィブラートを持つ」と公言していた。 彼の左指は、指先の骨がたわむくらい柔らかかった。動きの俊敏さも超絶的だった。 それは、彼自ら考案した「革命的音階練習」によって培われたものである。 天才的と言われた彼だが、実は自ら考案した音階練習の裏付けがあったのだ。 彼の音楽練習の特徴を一つだけ書くと、どの調整も、G線のG(含♯or♭)から始まることにある。 彼は常々、「頭を使え! 頭を使え!」と言っていた。彼の演奏からは、天才的なフィンガリングとボーイングに見えたが、それは動物的な野生の勘ではなく、考え抜かれた裏付けがあってのことだったのである。 シューマンの名言「知性は指を動かすが肉体練習で指は動かない」を具体化して実践しているのである。 よく理屈は立派だが、実際の演奏を見て失望することがあるが、彼は理屈も実践もずば抜けていた。しかも、彼の偉大なところは、それを自分だけのものにしようとせず、広く普及させようとしたことにある。 勿論、彼のアプローチ方法だけが唯一のもの