今日のグルーヴ〈475〉
一度に何度も聴く楽曲シリーズ。 モーツァルトの交響曲の30番代は、心地よい。 ジュピターは私には重く、何度も聴かない。 以前、消化器系の病気をやったときに、病院に行くまでの間、車の中でずっと36番、38番、39番を聴いていたことがある。 何の病気だろうと不安もあるなかで、これらの楽曲は、不思議と心が落ち着いた。 体調が悪いと、音楽も聴きたくなくなることがあるが、これらの楽曲は、体調が悪ければ悪いほど、というのも変だが、聴き応えがあった。 なにしろ、心地良い。音の美しさだけでなく、グルーヴそのものが心地良いのだと思った。 胃カメラは絶対に苦しいと思ったので、拒否し、バリウムでの検査にしてもらったが、検査技師は、時間をかけて撮影しているので、これは、何かあるな、と覚悟した。 検査が終わり、着替えようとしたら、不意打ちをくらった。 「お腹痛くないですか? 十二指腸に潰瘍ができていますよ!」と勝ち誇ったように言われた。 次の検査で控えていたご婦人が、私以上に青ざめていたのは気の毒だった。 確かに痛いから、病院に来たのである。とにかく、都コンブが異常に食べ
今日のグルーヴ〈474〉
楽曲では、全体の三分の二くらい進んだところがクライマックスという黄金分割の図式があるが、この図式は、人間の一生にも当て嵌まるように思えてならない。 信長の時代は、人生五十年と言われていたが、室町幕府を滅亡させた四十代前後が最も輝いていた頃のように思えるし、秀吉も、本能寺の変からの天下統一あたりの四十代の頃が、一番輝いていた頃なのではないか。 となれば、寿命がのびた現代では何歳くらいがピークなのだろうか。例えば,寿命が80歳だとしたならば、50代半ばから60代くらいがピークということになる。 しかし寿命がのびても、ピークもそれに伴ってずれるとも思えない。やはり、体力的にも精神的にも40歳前後が人生のピークなのではないか。 スポーツ選手の場合、ピークはもっと手前になるだろう。ちょうど冬季オリンピックの最中であるが、若い人達は、その若さゆえ正に輝いている。若さというのはそれだけで宝である。 昔は、歳をとればとるほど、体はともかく、心とか人間性は成長していくものだろうと、漠然と思っていたが、そうとは限らない。 特に男は、歳をとっていいことはほとんどないの
今日のグルーヴ〈473〉
一度に何度も聴く楽曲シリーズ。3 ブラームスの弦楽六重奏曲第1楽章。第2楽章ではない。iTunesを見ると、自分が聴いた楽曲の再生回数を知ることができるが、この曲が驚くほど多かった。 第2楽章が、昨年亡くなったジャンヌ・モロー主演のフランス映画「恋人たち」でメインのテーマで使われていることもあってか、人気がある。 この映画はテレビで初めて見た。小学生のころであるから、男と女のことはよく分からなかったが、ブラームスのメロディがずっしり重く、なんとなく大変なんだなぁ、とは思った。小学生でもジャンヌ・モローの美しさは分かる。 ブラームス自身、第2楽章をクララに贈ったこともあり、やはり、この楽章は、男と女の情念を描いているようにも思えるが、1974年にテレビドラマとして放映された「二十一歳の父」(島かおり、大和田獏主演)でも、この楽曲が使われていて、その時は男と女の情念というよりは、冒頭のメロディは世の不条理、どうにもならない運命というものを表現しているように思えてならなかった。 ちょうど大学浪人している年であり、昼間の時間帯のドラマであるにもかかわらず
今日のグルーヴ〈472〉
一度に何度も聴く楽曲シリーズ。番外編 ベートーヴェンは、一度に何度も聴くことができない。一度で十分である。 何故かシンフォニーもピアノ・ソナタも弦楽四重奏曲も一度で、しかも一曲で腹一杯になる。にもかかわらず、弦楽四重奏全曲演奏とか、シンフォニーを一日で一挙に演奏などというのは、耐久レースに近い。 昔、作曲家でヴァイオリニストの玉木宏樹先生はベートーヴェン嫌いで有名だった。ベートーヴェンのメロディが幼稚であるとして毛嫌いされていた。 ベートーヴェンばかり弾かされるオーケストラに嫌気がさして、クラシック界からドロップアウトされたくらいである。 尤も、ベートーヴェンの展開の才能に関しては賞賛されていた。 ベートーヴェンの執念深い推敲の痕跡は、自筆譜で残されているが、玉木先生は、曲によっては推敲する前の方がいい、という意見も持たれていた。 ベートーヴェンの作品は、できるならば何の楽器でもいいが演奏してみて味わいたい。そこではじめて良さが分かる、という気がしてならない。 きっちりかっちり演奏することの快感がそこにはある。ずれはあまり許されない。では、グルー
今日のグルーヴ〈471〉
一度に何度も聴く楽曲シリーズ2。 ラヴェルの左手の為のピアノ協奏曲。この曲の冒頭は、私がかつて聴いてきた楽曲の中で、最も雄大壮大である、と思う。 冒頭、コントラバソンの幽玄微妙な音程が分からないくらいの超低音から始まり、だんだんと盛り上がって、オケの壮大な演奏にピアノのカデンツァが衝撃的に割り込む。 いったい、これからどんな雄大な世界が待っているのだろうと、こちらとしてはわくわくしながら聴く。 オケのトゥッティの頂上では、トランペットが朗々と歌うのであるが、これが美味しい。 しかし、いかんせん、ここまでである。あまりにも頭でっかちである。この楽曲は3部に分けられるらしいが、第1部を私は繰り返し聴くのみである。 2部3部も勿論素晴らしく、好きではあるが、1部の壮大な世界に対して、2部3部はあまりにもしり切れトンボに私には聞こえるのである。少なくとも、時間的にもあと倍くらいは欲しい。 想像するに、右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインから作曲の要請を受けたとき、ラヴェルは、とてつもなくやる気になったのであろう。 そして、冒頭の部分は一気
今日のグルーヴ〈470〉
一時に何度も聴く楽曲シリーズ。ラヴェルの『マ・メール・ロワ』(マザーグース)の終曲の妖精の園。 これは、眠りに就いた眠れる森の王女が王子の口づけで目を覚ますシーンということらしいが、そのようなハッピーエンドにはどうしても聞こえない。 家内は独自のストーリーを描いている。王子への恋に破れた人魚姫が、海に帰っていく場面を想像するのだという。 確かに、全体に寂しげであり、諦観に満ちている。 ところでチャイコフスキーの眠れる森の美女の結婚行進曲もまったくめでたい感じがしない。まるでチャイコフスキーの結婚の失敗を暗示しているようである。この楽曲のトランペットを吹いたことがあるが、ただひたすら苦しい。 『マ・メール・ロワ』で、私が好んで聴くのは、ジャン=フィリップ・コラールの演奏である。昔、彼のインタヴューで写真を撮ったことがある。 背が高く、何より指が長いことに驚いたものだ。見た目が、いわゆる繊細な長い指なのであるが、その手が誰よりも大きい。二回りくらい大きいのである。 つまり、繊細で長い指プラス力強さも備わった類い希なる指に違いないと私は思ったのである。
今日のグルーヴ〈469〉
気がついたら、スーパー、コンビニ、電気量販店の各種ポイントカードが溢れるほど貯まっていた。財布はお札でなく、ポイントカードの厚みで壊れそうである。 先日、遂に、差し出すポイントカードを間違えた。それ以来、ポイントカードを選んで探すことを放棄し、コンビニの店員に聞くことにした。 「おたくは何のカードでしたっけ?」 「~カードです。」 そう言われても持っていないものもある。たぶんないと思いながらも聞いているのである。 すべてのコンビニのポイントカードを揃えるのは、混乱に拍車をかけるようなものである。買い物のたびにポイントカードを探すのは何か時間を無駄にしているような気がしてならない。 しかし、何故かポイントが付くのは嬉しい。電気料金もポイントになるし、電気量販店で貯まったポイントで買い物が出来るのも嬉しい。 ゆえに、レジでカードの入っている財布を忘れたことに気づくと、もの凄く悔しい思いをする。しかし、忘れたと思ったカードが見つかったとき、何故か嬉しい。 この嬉しいという感情は、何の価値観からくるのだろうか。いずれにしても嬉しいという感情自体が人間の購