今日のグルーヴ〈254〉
かつてイタリアの世界的なコントラバス・クァルテットの『オクトバス4』のメンバーに話を聞いたときのことだ。 彼らの言によれば、イタリアのコントラバス奏者の多くは、ギターやエレキ・ギターから始めて、その後コントラバスに転向する人がほとんどらしい。最初からコントラバスを弾くのは難しい、とのことだった。 言われてみれば納得する。ヴァイオリンやヴィオラやチェロに比べてポジション移動自体が超絶的であるし、子供の頃から弾くわけにもいかない。ある程度、大きくなってから演奏するのであるが、それまでに音楽の基礎的な勉強をしてなかったら間に合わないだろう。 オクトバス4は、勿論超絶技巧が素晴らしいのであるが、そもそもアンサンブル、ハーモニー、リズム感が、つまり、基本中の基本が素晴らしく、非の打ち所が無いような演奏をしていた。 そして一番大切なところだが、彼らは完全に音楽を楽しみ、聴衆にもその楽しさを完璧に伝えていた。それは、今思えば、音程やリズムといった話ではなく、言うまでもなくグルーヴ感そのものだった。 それまで、卓越したコントラバスのアンサンブルを聴いたことがなか
今日のグルーヴ〈253〉
時々、ネタ探しに昔の文章を漁ることがあるが、当時のことが思い出されて懐かしく思うことがある。 昔、自分の文章を書く場は、紙媒体では編集後記、ネット関係ではブログがあった。そう言えば携帯ブログというのもあった。しかしネットの世界もいろいろ淘汰が激しい。いつの間にか絞られていた。 手前味噌で恐縮だが、編集後記は今読んでも結構推敲していたことが分かる。実を言うと、編集後記には雑誌の中で一番力を入れていたかもしれない。 起承転結、TPO、ユーモア、おち、そして今思えばグルーヴ感、これだけ留意すれば、文章は自然とできあがる。テーマなどは、探さなくてもそこら中に転がっているように思える。 人気のある芸人らのトークを聴いていても、テーマというより、間(ま)やグルーヴ感でユーモアを表現している。彼らの間やグルーヴ感は、さすがである。教養とか語彙といったものより、むしろ言葉のチョイスであり、琴線に触れる間やグルーヴ感こそ命であろう。 人間は、教養や博学といったものにはあまり心を動かされないように思えるし、計算された話にも動かされない。ピュアな心から、無念無想から滲


今日のグルーヴ〈252〉
ドビュッシーは歴史上、音楽史上の人物になってしまったが、ジェラール・プーレさんによって、身近に感じることのできる大作曲家である。 リサイタル『ドビュッシー三昧』が近付いてきた。 1917年5月5日のドビュッシーのヴァイオリン・ソナタの初演からちょうど100年目、来たる5月5日、世界的ヴァイオリニスト、ジェラール・プーレさんのリサイタルにて同曲が演奏される。 『ドビュッシー三昧』5月5日(金・祝)14時、紀尾井ホール。 初演は、ジェラール・プーレさんの父親であるガストン・プーレのヴァイオリン、そしてドビュッシー自身のピアノ演奏によって演奏された。 この作品は、ガストン・プーレとドビュッシーとのコラボレーションで完成されたのである。 ガストンさんから、この作品を弾くにあたっての奏法、音楽性、ドビュッシー自身のことについて多くのことを語られ教わっているプーレさんにとって、ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタは、家宝である。 http://www.a-cordes.com/20170505 https://suzuki-show10.stores.jp/
今日のグルーヴ〈251〉
dマガジンが誕生し、すでに普及しているApple Music やAmazonプライムやhulu、青空文庫といったクラウド・コンテンツと合わせたら、知りたい新しい情報、読みたいもの、聴きたい音楽、見たい映画、映像等は、ほぼ居ながらにしてすべて手に入る時代になった。 なにしろ便利である。ゴシップ記事や、夏目漱石や芥川龍之介の、あの小説の読みたいと思ったあの一節がすぐに読めるし、ブラームスの三番のシンフォニーの第2楽章が今聴きたいと思ったときに即座に聴くことができるのである。また、あの映画のあの名場面が今見たい、と思ったらすぐに見ることができるのである。 ググれば、知りたいと思った大抵のことは知ることができるのと同じくらい手軽になったのである。 凄い時代になったものだ。 居ながらにして欲しいものすべてが手に入る時代になったら、誰もコンサートに行かないのではないか、映画館に行かないのではないか、と思いがちだが、それは逆である。 例えばコンサートやライブはなくならないだろう、と直感的に思う。聴衆は演奏家やアーティストと同じ空間と時間を共有することを未来永劫
今日のグルーヴ〈250〉
政治家の本音というのは、即失言に繋がるそうだ。 しかし、思っていることは、どうしても出てしまうものだ。無理することなく、本音、あれば自身の主義主張を遠慮せずに表現してほしい。その方が有権者としては分かりやすい。 ところで、出世しそうな人を、末は博士か大臣か、と昔は言ったものだ。しかし、大臣、総理大臣というのは、出世の象徴かもしれないが、実際になってみたら、苦しいことばかりなのではないか。 そのような立場に何故なりたがるのか、大臣イコール出世だと思っていたとしたら、その認識は改めるべきなのではないか。 なぜならば、国のために尽くそうと思った瞬間、大臣の地位は茨の道、苦しいことばかりなのではないか。こんな苦しい立場に何を好き好んでなろうとするのだろうか。 大臣という名前に何か幻想をもっていないだろうか。確かに、一方では、いろいろ待遇はいいらしい。 総理大臣の場合、三日やったらやめられない、と昔から言われている。それほど居心地がいいのかもしれない。 いずれにしても、問題は、何の大臣になるかは二の次で、当選五回だから、そろそろ大臣の名が欲しい、というとこ
今日のグルーヴ〈249〉
アンドレのアンダンテを聴いたら戦争をする気にはなれない。 音楽演奏史上、燦然と輝く世紀のトランペット奏者モーリス・アンドレに会ったとき、彼は芸術に保守的なものがあってはならない、と言われた。 奏法についても質問した。 「奏法に関して、どのアンブシュアが良い、というものはなくて、演奏者それぞれが、自分の楽器からどうやって幸せを見つけられるか、つまり楽器を持って幸せを感じられるか、それが一番大事」と言われていた。 アンドレのアンダンテ(何の曲にしても)を聴いたら戦争をする気にはなれない、という批評もあったそうだ。 非常に抽象的に聞こえるが、正に仰せのとおり、これ以上付け足す言葉が必要なく、言われた言葉一つ一つに共感しかない。 ただ、彼は元々持って生まれた口の形はラッキーだったと神様に感謝しているとは言っていた。 ところで、彼がパリのコンセルヴァトワールの学生だったころ、彼の先生から、ある楽器メーカーの楽器を吹け、と強制されたらしいが、彼がコンセルヴァトワールの先生になってからは、生徒には生徒自身が好きな楽器を自由に吹かせていたそうだ。 基本的には、ど
今日のグルーヴ〈248〉
ミサイルが発射されたら、警報が鳴るという、これはもうすでに戦時体制ではないか。 地下へ避難したり、頑丈な建物に入ったり、ガラス窓から離れたり、という指示があるが、本当にミサイルが落ちてきたら、地下はともかく、こんなことで身の安全がはかれるのだろうか、と小学生でも疑問に思うだろう。 太平洋戦争末期に、竹槍で本土決戦と言っているのと同じくらい陳腐に聞こえる。 核だったらどうなるのか。原子力発電所が攻撃されたらどうなるのか。 しかし、とりあえず、世の中、見かけは平和である。危機が切迫していても身に降りかからない限り、何も動かない、というか、動きようがないのかもしれない。 阪神淡路大震災の時も、両親が西宮にいて電話連絡できなく、当時は携帯もSNSも無く、連絡の取りようが無かった。それでも東京は普通に動いていた。 太平洋戦争末期の空襲の時も、最初はそんなに危機感を持っていなかったのではないだろうか。東京にいた母は、最初はこんなこともあるくらいに思っていたらしいが、空襲がだんだん酷くなるにつれ、日本は大丈夫なのか、と次第に不安が膨らんでいったという。そして、
今日のグルーヴ〈247〉
以前、玉木宏樹先生と、革命的音階練習を作ったときのことだが、シューマンの名言“知性は指を動かすが、単なる肉体練習で指は動かない”を理念としていたのである。 何が革命的なのかと言ったら、音階を長調、短調の二種類だけでなく、旋法(モード)にまで拡げたことが、革命的の一つだった。 我々のほとんどは、長調と短調しか習ってこなかったし、音階とはそういうものだ、と刷り込まれてきたから、そもそも他に音階があるということ自体、何のことだか分からない、という人も多い。私がそうだった。 ごくごく簡単に言うと、 ピアノの白鍵のみを使い、 ドから始まる音階は、誰もが知っている長調の音階である。 旋法として言えば、イオニア旋法である。 次にピアノの白鍵のレから始まる音階がドリア旋法、 ミから始まる音階がフリギア旋法、 ファから始まる音階がリディア旋法、 ソから始まる音階がミクソリディア旋法、 ラから始まる音階が、誰もが知っている短調で、 旋法的に言うとエオリア旋法、 シから始まる音階がロクリア旋法 となる。 既存の楽曲では、様々な旋法が使われているのである。ならば、その旋
今日のグルーヴ〈246〉
哲学者の土屋賢二先生の哲学は、すべての常識を疑うところから始まる、しかしすべてに疑問を持つ行為そのものの有効性は信じているわけで、結局それは、信じる行為そのものではないだろうか。 それはともかく、その伝でいけば、世の中のすべての常識に疑問を持つことは、道を一歩進める上で有効かもしれない。実際、土屋賢二先生ご自身もそう言われている。 例えば、イチロー選手のバッティング・フォーム。と言っても昔の振り子打法ではない。現在のフォームである。 イチロー選手は、おそらくバッティング・フォームの常識に疑問を呈するところから始めたのではないだろうか。 見て驚いた。それまで理想とされている、レベルスイングでもダウンスイングでもなく、またアッパースイングでもない。 言わばダウンアッパースイングとも言うのだろうか。 考えてみれば、ピッチャーは打たれるために投げているわけでなく、バッターに打たれないためにあらゆる工夫をしてくる。近年では落ちる球の種類が豊富で、その球をレベルスイングやダウンスイングで打とうとしても、ほとんど時の運ではないだろうか。 イチロー選手はとにかく
今日のグルーヴ〈245〉
ひとりの人間の中には、進化している部分と退化している部分とが同居している。 私の場合、例えば体力に関しては、明らかに衰えているだろう。しかし、風邪をひくことが極端に少なくなった。この歳になると、インフルエンザにもかからない。ほとんどのインフルエンザに対して免疫ができたからではないだろうか。 トランペットは、勘違いで無く、明らかに上達した。うそでもはったりでも無い。これに関しては自分をごまかせない。しかし、かつてオケを3つ、さらにトラでいくつか掛け持ちして顰蹙をかったのに、今は披露する場がほとんど無い。 文章に関しては、コンピュータのおかげで、書きやすくなった。しかし、手書きの字は下手になり、ひらがなの「わ」や「ね」「れ」が極端に書けなくなった。 九九に関しては、忘れることなどあり得ない、と思っていたが、時々、不安になる自分に不安を覚える。 記憶力は衰える、記憶するには刷り込み作業が必要になる、とよく言われるが、結局は興味の無いものに関して、記憶しようと思わないだけではないだろうか。歳をとっても興味を抱いたものに関しては、覚えようと思わなくて覚えて