今日のグルーヴ〈373〉
世界は、非常にきな臭い状況になっているが、アメリカの人気ドラマ「24」は、2001年からの放送だが、当時から今を予言しているように思えてならない。 「24」の主役であるジャック・バウアーは、テロ対策ユニットの人間で、テロに対抗するために、あらゆるスキルを身につけているが、現実にいそうな、リアリティのあるスーパーマンである。 なにしろ、体一つで、あらゆる状況を乗り越えていく。敵を追いかけるとき、車がなくても、道ばたに駐車している車の窓ガラスをたたき割って、スターターの配線をショートさせてエンジンをかける。 大抵の車、特殊免許が必要なものまで含めて運転をすることができる。ヘリコプターやセスナは朝飯前。その気になれば、旅客機も操縦できる。 尚且つ、コンピュータには強いし、ハイテク全般に精通している。当然、各種の武器を取り扱うことができる。 どのような困難な状況でも、あらゆるスキルを駆使させて切り抜けていくだけの頭の良さもある。尚且つ、格闘も強い。何より不条理が許せず正義感が強い。勇気凜々である。これで女性にもてないわけがない。 しかし、彼が強い意志を貫
今日のグルーヴ〈372〉
諸行無常、世代交代は、世の常であるが、将棋の世界も今その時期なのか。 これまで、通算98ものタイトルを獲得してきた羽生三冠が王位のタイトルを菅井七段から奪取された。 これだけたくさんの棋戦を経験しても、羽生三冠は、こうすれば絶対勝てるという方程式は見つからない、と過去に言われていたように思う。 尤も、こうすれば絶対勝てる、というものがあったとしたら、逆につまらなくて誰もやらなくなるだろう。 将棋の対戦は、正に武士が真剣勝負で鎬を削るのとまったく同じであるように思う。心、技、体、揃わなければ、勝負にならないのかもしれない。 その上、ぎりぎりの読みの中で、これぞという手を指し、さらにミスをしないで勝ちきる、というのは、一度は出来ても、五番勝負や七番勝負で勝ち越すのは大変なことに違いない。 天才ばかりの世界で、すべての棋戦に勝つことなど、誰にとっても不可能である中で、勝率をどれだけ上げることができるか。繊細かつ尋常な世界ではないことが改めて察せられる。 カーレースの勝負は、一ミリ単位の繊細な世界で決まる、と以前、ある日本人レーサーから聞いたことがある。
今日のグルーヴ〈371〉
早朝、Jアラートが鳴った。緊急地震速報の音もそうだが、ぞっとする音だ。 戦前の空襲警報にも、当時の日本人はぞっとしたに違いない。 戦後70年を過ぎて、こういう音を鳴らすような事態になってきたことにぞっとする。 対象地域が、北海道、青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、新潟県、長野県、つまり、東日本と北日本であるが、長野県があって、何故、埼玉県や千葉県や山梨県や神奈川県、そして東京都がないのか、分からない。 もし、東京を入れたら、パニックになるからだろうか。 Jアラートが鳴ったら、頑丈な建物や地下に。なければ地面に伏せて頭を保護しろ、という。 頑丈な建物や地下というのは、身近にある人ばかりではない。 地面に伏せて頭を保護しろに至っては、終戦直前の竹槍を連想させる。やらないよりまし、ということなのか。 国と国とが友好関係を保てるか否かは、家庭や地域社会の平和が保てるか否かと似たような人間臭さがあるような気がしてならない。 暴発ということもありうる。 一切、付き合わない、という方法も考えるべきなのではないか。
今日のグルーヴ〈370〉
金管楽器は、見た目を分析するだけでは、奏法を理解し難いところがあるが、やはり世界は広い。 MRIを使って、ホルンを吹いている時に、口の中や肺、横隔膜がどうなっているのかを分析している映像を見た。 それを見ると、音の高低は、やはりシラブル(口の中の形、容積、舌を使って調整)によって調整している。また、横隔膜もかなり重要な役目をはたしている。 見れば見るほど、ヒントがあり、興味深い。 ところで、MRIでやろうとしたことは、あくまでも奏法の確認であると思いたい。MRIの映像から奏法を導き出すのは、本末転倒である。やっても混乱するだけだろう。 同じ意味で、メトロノームやチューナーやオルガンを使用するのは、あくまで確認であって、それを使ってトレーニングするのは、演奏の自主性を失わせる。 演奏から自主性を除いたら何の為の演奏なのか。 吹奏楽コンクールの季節、まっただ中であるが、生徒から自主性を失わせて、整った演奏をして、良い成績を残したとしても、それは指導者の自己満足でしかないだろう。 生徒達の楽器人生は、その後、どうなるのか。音楽や楽器というのは、青春の思
今日のグルーヴ〈369〉
どのスポーツも時々、多少なりともルール改正を行なっているが、ルール改正の結果、つまらなくなるものもある。 例えば、バレーボールでは、かなり頻繁にルール改正を行なっている。非常に大きなルール改正に、サイドアウト制からラリーポイント制へ、というものがあるが、この結果、恐ろしくつまらなくなった。 時間を短縮する目的らしいが、バレーボールの最も魅力的な部分、それは粘り腰であると思うが、それが無くなってしまい、淡泊な試合ばかりのように思えてならない。 かつて日本が滅茶苦茶強かった時代、1980年くらいまでは、日本封じのためルール改正が多々あり、見事、日本を封じたのであるが、まるで戦前の日本への海軍軍縮である。 WBCで日本が二連覇をしたためか、盛んにビデオ判定を持ち出してきたりして、日本チームへの風当たりの強い判定が多くなっている。 野球の場合、ビデオ判定は、よほどのことが無い限り、例えば、審判が明確な誤審をしたような時に、審判に差し違えの証拠を見てもらうようなとき以外、利用すべきでない、と思う。 タイミング的にはセーフ、あるいはアウトというのがあっていい
今日のグルーヴ〈368〉
あらゆるものがデジタル化され、クラウド化されつつあるが、現状は非常に便利である。結局は使い勝手の良いものが残るのであろう。 音楽がクラウド化され、ストリーミングサービスという方法で、我々は音楽を以前とははるかに超えた種類と回数で聴くことができるようになったが、おそらく、このやり方が終着点なのではないか。 レコード、CD、mp3、と音楽配信は進んで来たが、一番負担のかからない方法があるならば、誰もが、そこに自然と移行してしまうだろう。 アメリカでは、昨年の売り上げの内訳は、大雑把に、ストリーミング、ダウンロード、CD等、それぞれの割合が5:3:2くらいであるという。 すでにストリーミングが過半数を超える勢いである。 さて、我々は、この数十年間に、様々なメディアの登場に振り回されてきたが、ストリーミングが登場して定着しつつあるなかで、今後、多少の変化はあっても、この方式は継続されるように思えてならない。 つまり、デジタル化に次いでクラウド化によるパラダイム転換を認識することが、あらゆる世界にとって最も重要なことになるだろう。 思えば、この30年ほど、
今日のグルーヴ〈367〉
何かの弾みで、強気になった時というのは、演奏が驚くほど上手くいく、ということを誰もが体験している。 逆に弱気になった時というのは、同じ人間かと思うほど、情けない状態になる。 人々の注目が自分に向かっていない時、案外、強気になり、演奏は実に意欲的になる。 ところが、ソロ等、自分が注目されていると思った瞬間、全てに慎重になり、弱気になり、演奏は無残なものとなる。 しかし、これでは演奏する意味がない。すると、失敗を予防しようとするあまり、演奏をルーティンワーク化し、予定調和を作ろうとする。 しかし、これでは、今度は、演奏を聴く意味がない。 演奏は、静止画ではない。聴衆の人生と同時進行中の動画である。諸行無常にこそ、演奏の目的がある。 否定的な意味でなく、肯定的な意味で、何が起きるか分からないところに演奏の醍醐味がある。 ところで、イタリア人の性格が激しいのは、イタリア人の気質なのかと思っていた。喜ぶときも悲しむときも、かなり大げさな身振り手振りと大きな声で表現するのであるが、これはイタリア人特有の民族性なのかと思っていた。 ところが、ヴァイオリニストの
今日のグルーヴ〈366〉
Apple Music他のクラウド ミュージックでは、数千万曲の楽曲を聴くことができるそうだが、これは、個人にとっては、ほぼ無限である。 とても、全てを聴くことはできないが、クラウドの凄いのは、いつどこにいても、聴きたいと思った瞬間に聴きたいものを聴くことができるということである。 かつて、LPレコードを買っていた時代、聴きたい音楽があった場合、休みの日に一日かけて、レコード店を何軒か廻って、挙げ句の果てに見つからなかったということがあった。 話は逸れるが、書店で本を買う人が、著しく減少しているという報道があった。紙媒体をもワン・クリックで買う人が増えたのである。 それは、そうだろう。書店に行っても、読みたい本が必ずあるとは限らないのであるから。読みたい本を作り出す、という作業はできるが。 話を戻すが、CDの時代になると、情報が豊かになり、見つからないということは減少した。しかし、見つかったのはいいが、他にも聴きたいCDが見つかり、お小遣いの事情で、どちらを買うべきか迷いに迷うということも多々あった。 しかし、クラウドでは、そのような迷いは必要と
今日のグルーヴ〈365〉
365回めということで、この一年間のグルーヴに関しての洞察をまとめてみたい。 グルーヴは、目に見えたり、耳に聞こえたり、体に伝わってくるものだが、結局は表現の結果であって源ではない。源は、当然ながら頭の中にあるはずである。 体の方から頭に刺激を与える、ということも医学的にはあるようだが、その場合も、体に指令を出すのはやはり頭である。 あらゆるグルーヴの源は頭にあるという前提に立つと、そもそも、聴衆を揺さぶるようなグルーヴを生み出すものは何か。 同じ人間でグルーヴの源に差があるはずはない。誰もがグルーヴをそもそも生まれたときから持っているはずである、という前提で話を展開したい。 とは言え、そもそもグルーヴの存在を知らなければ、グルーヴの発揮のしようがない。 勿論、現にグルーヴの存在を知らなくても、無意識にグルーヴしている人は存在しているのであるが、いつしか、心身ともに若干衰えた場合に、グルーヴの存在を知らないと、対処のしようがない。 ゆえに、この一年で最も言いたかったのは、グルーヴを感性とせず、意図的にテクニックとして意識して活用したい、ということ
今日のグルーヴ〈364〉
映画や動画にも、心動かされるものには、当然ながらグルーヴ感はあるだろう。 では、絵画や彫刻のような静止しているものはどうなのか。 あるいは建築物はどうなのか。 音楽にグルーヴ感があったりなかったりするのと同じように、静止しているものにも広義のグルーヴがあったりなかったりするに違いない。 それは、経験的に体感しているのではないか。 例えば、かつては活気のあった商店街が、何らかの事情で、閑散としてしまった情景に遭遇することがある。 明らかに、活気はグルーヴであり、生気の無い閑散として状態にグルーヴはない。 家は、人が住まないと、腐っていくという。実際そうである。生まれつきグルーヴを持っている人間がいてこそ、家は生きていくものであり、呼応してグルーヴを生み出す。 そのような事を考えると、動静関係なく、グルーヴはあるはずだ。 ゆえに、絵画や彫刻にもグルーヴあるに違いない。 実際、心を動かされる絵画や彫刻に遭遇するというのは、グルーヴがあるからなのではないか。 窓から見える景色、あるいは大自然は、一見、静止しているように見えるが、言うまでもなく、常に変化し