今日のグルーヴ〈353〉
本音と建前を使い分けるのは、日本人の特性と言われる。 本音と建て前を使い分けてきたからこそ、日本人は、生き延びる術を見つけたのであろう。 ただ、本音と建て前を使い分けることは、自分に嘘をつくことになるわけで、自分に嘘をついてまで、建前を言い続けることは、いつかは破綻を来たすだろう。 比較的使い分けられるのは、間違った本音と正しい建前である(はずである)。良心に従っていれば、間違った本音は言わないだろう。 ところが、正しい本音と間違った建前を使い分けなければならなくなると、論理的、精神的にはいつか破綻を来たす。 政治家の発言が失言として頻繁に話題になるが、この場合の失言とは間違った本音を言ってしまうことなのではないか。失言のレベルとしては、低い次元である。 しかるに政治家の正しい本音まで失言として扱われるのは疑問である。 そうすると政治家は発言に慎重になる。正しいことを主張するのも慎重になってしまう。 政治家が正しい本音を言って責められるとしたら、何の為に存在しているのか、ということになりかねない。議決の時の一票のためだけの存在だとしたら、誰がなっ
今日のグルーヴ〈352〉
本田美奈子さんは、もし健在であったならば、不世出のハイ・ソプラノ歌手としての活動を、特にクラシカル・クロスオーヴァーの世界で展開していかれたのではないだろうか。 ただ、本田さんは、ポップス時代からミュージカル、そしてクラシカルクロスオーヴァーへと歌い続けると同時に、たくさんの録音を残された。 彼女の歌が、変遷していくのを辿ると、その劇的さに驚愕する。それは、彼女自身のオリジナルのレパートリーだけでなく、様々なスタンダードな作品をも彼女自身の大切なレパートリーにしていく様そのものである。 あれだけ、美しい高い声が出て、確実な音程で歌いこなせれば、とにかく名曲はなんでも歌いたくなるのは想像に難くない。しかも選曲のセンスも素晴らしい。 彼女のクラシカルクロスオーヴァーは、『JUNTION』『AVEMARIA-アヴェ・マリア』『時-とき』で堪能することができる。 『JUNTION』には、驚異のロングトーンを歌っている「つばさ」が収録されている。 「アヴェ・マリア」といってもシューベルトやグノーではない。カッチーニである。 「誰も寝てはならぬ」で は彼女の
今日のグルーヴ〈351〉
グルーヴは、長く伸ばす音、つまりロングトーンにもある、と言ってみたい。 例えば、ロングトーンには、よくヴィブラートをかけるが、このヴィブラートはグルーヴの源の一つに違いない。しかし、ヴィブラートをかけないロングトーンにもグルーヴはある。 トーンというものは、そもそも振動が源であるが、その振動自体がグルーヴの源である。 尤も、グルーヴを感じないロングトーンもあるにはある。例えば純正律のハーモニー。 純正律の完璧にハモったハーモニーにはグルーヴは無いかもしれないが、言ってみれば、一つの彫刻、絵画、時間から解放された永遠の美のようなものだ。 私にとっても、ロングトーンは、学生時代からの一生のテーマである。尤も学生時代は、全調スケール16拍ロングトーンという、ばかばかしいほどの練習をよくしていたものではあるが。 まったくロングトーンの美というものを知らず、また意味を考えようともせず、ただ、しごきに耐えることに意義があるなどという愚かな意識でやっていたのである。 しかし、初めて本田美奈子さんの『つばさ』を聴いたとき、椅子から転げ落ちるくらい度肝を抜かれたも
今日のグルーヴ〈350〉
元副総理の後藤田正晴氏によれば、自衛隊存立の根拠は自然権であるという。国外から不法な攻撃を受けたときに反撃するのは自然権なのであるという。 憲法がどうであれ、まずは自然権があるのだ。おのずと自衛隊は文字通り専守防衛でなければならないし、無闇に自衛隊を利用してはならない。そこはけじめをつけなければならないのだという。https://www.youtube.com/watch?v=Q_VITo4az2U これで、すべてすっきりするのではないか。 憲法第九条と自衛隊とはなんら矛盾しない。 自衛隊の存立の根拠は証明されているし、また、なし崩し的に海外に派遣している現状に警鐘を鳴らしている。 憲法を改正する必要性はどこにあるのか。 先の大戦後70年にわたって戦争がなかった国は、国連加盟国190カ国以上の中で、8カ国だけだという。その中に勿論日本があるわけだが、日本国憲法が平和に果たした役割は、実証されている。 なんで無理矢理改正するのか。 押しつけられたものだから? しかし、それは事実誤認なのではないか。 以前NHKの番組で、日本国憲法は、一概に一方的に押
今日のグルーヴ〈349〉
ラジカセの歴史の展示会が行なわれている(http://dairadicasseten.haction.co.jp/#section-1)。 ラジカセ、久しぶりに聞く言葉だ。 初めてラジカセを持ったのは、ラジカセの初期も初期、高校生の頃であるが、ご多分に漏れずエアチェックをしまくったものだ。 FM放送の音の美しさに惹かれて、FM雑誌を買って、赤ペンでチェックをして、カセットテープに録音をしまくった。当時の若者は誰もがやっていた。 当時でもLPレコードは2000円前後で、とても高校生には買えなかった。ゆえにFM放送の音楽番組は、非常に貴重な音楽の情報源だった。 その結果、カセットテープは山のように溜まったが、今や殆ど聴いていない。捨てた人も多いのではないか。 SPレコードもLPレコードも廃れ、今や若者の間ではCDも廃れている現状を鑑みるに、音楽メディア(記録媒体)は変遷してしまうので、せっかく集めても徒労に終わるのではないか。 こういったものを集めること自体、経済的、時間的、空間的に大変な負担である。 また欲しいものを見つける事自体、意外と大変で、実
今日のグルーヴ〈348〉
誰もが、男も女も、等しく歳をとり、容姿も衰えていくのであるが、輝くばかりの若い頃と比べることは残酷である。 若さは、それだけで何にも代え難い宝である、と母は言っていたが、著名な人、特に俳優やアナウンサーといった頻繁に我々が見る機会の多い人達の若い頃のフィルムや写真を観たりすると、母の言ったことは宜なるかな、といった思いだ。 残念ながら大多数の人は、歳をとるにつれて、容姿の魅力が失われていく。 本当は、歳をとったらとったなりの美があるはずである。 肉体の衰えイコール容姿の衰えとは限らない、と思いたいが、しかし、現実はそうではない。 私は団塊の世代の下の世代なのであるが、私が子供の頃に見た団塊の世代の方々の青春時代のまさに輝くばかりの希望に満ちたあの目、あるいは自信満々のニヒリズムを湛えたあの目はどこに行ってしまったのか。 いったい何がそうさせたのか。 希少ではあるが、歳をとっても魅力的な人、魅力が増した人もいる。 むしろ歳をとった方が魅力的なのではないか、と思う人もいる。 そういう人はたいてい、見かけだけかもしれないが(見かけだけでもたいしたもので
今日のグルーヴ〈347〉
先日、ヒップホップ系が多少混じったジャズ・ダンスを踊っている娘のダンスのライヴに行った。 ロック系のライヴもそうであるが、この系統の音楽の音量の大きさ、PAにはいつも圧倒される。 アンプから出てくる音は、音楽というより、バイオレンスなのではないか。 自分も歳をとったのかな、とも思ったが、それだけではないように思えてならない。 勿論、ある程度の音量がなければまるでさまにならないが、だんだんエスカレートして、殆ど人間の許容範囲を超えている。 しかし、人間の耳は、順応する、というか防衛しようとする。だから、いくら音量を大きくしても、無駄なのではないか。 ダイナミクスは相対的なもので、絶対的なものであると考えても、あまり意味がないのではないか。 しかし考えてみれば、それはクラシック音楽も同様であった。ある有名なオケでは、ティンパニの前に座っている人は、耳栓をしていたという話を聞いたことがあるが、そもそもそんなことをすること自体、音楽的、芸術的な行為と言えるのだろうか。会場の大きさの問題もあるかもしれない。そもそもクラシックの大ホールは大き過ぎる。 一方で
今日のグルーヴ〈346〉
内閣改造が行なわれているというニュースを見てまた思い出した。 すでに成立してしまった共謀罪の277の法の中には著作権に関するものが含まれている。 著作権の正しい理解は、特に音楽著作権に関しては、かつて常に過敏になっていたにも関わらず、いまだによく分からない。何故なら法の中身自体が頻繁に変化するからだ。 著作権は作者の権利を守るものであるから、それ自体は正しい。だが、それに伴って派生する様々な権利に関して、何が正しい理解で何が正しい運用なのか不明瞭過ぎて、また、著作権が切れる年数も変化してきているし、判例を読んでも、微妙なゾーンがあったりするので、まったく自信がもてない。ゆえに著作権のあるものは避けようと思うようになった。 余計な心配かもしれないが、そのうち、著作権の切れている作品にも著作権があるのではないか、と誤解する人も出てくるのではないか。 音楽教室にも著作権料が請求されるということで社会問題にもなっている。作曲家に著作権料がわたっていない場合が多々ある、という話を聞くと、そもそも著作権自体の正しい運用は、これからの課題なのではないか。 さて
今日のグルーヴ〈345〉
よく様式とか様式美といったことが言われるが、これが案外分かったようで分からない概念なのではないか。 例えば、バロック音楽、古典派の音楽、ロココ風、ロマン派、国民楽派などと言われるが、この言葉と様式とは、今のところ無関係ではないように思える。 ハイドンは古典派の音楽、ベートーヴェンは古典派とロマン派にまたがった音楽、ヴァーグナーはロマン派、などと学校の音楽教室の壁に貼ってあったが、いったい何を根拠にそのようなレッテルを貼るのだろうか。 後生の人間達が勝手に音楽史を作っただけであって、本人達は、そんな事を意識して作曲していたのだろうか。 勿論、生きていた時代に影響されるということはあるだろう。当然、古典派の時代に、ロック音楽が誕生するわけがないわけで、その意味では、時代を反映しているということはあるだろう。 しかし、作曲家にとって、後生の人間に大きく一括りずつ括られるのは本意ではないように思えてならない。自分の音楽は自分の音楽、ロマン派という言葉に括られるほど単純ではない、と主張するに違いない。 そして、この無意味な音楽の歴史的な分け方から、どういう