今日のグルーヴ〈363〉
本田美奈子さんの「つばさ」は、オーケストラとの同録(同時録音)だったとご本人が語っていた。 これは、現在の録音事情からすると考えられない。現在は、同録どころか、人間が演奏する生の楽器すらも使われなくなっている。ほとんど、打ち込みである。 打ち込みでも、生の楽器の音としか思えないくらいクオリティが良くなったからできることであるが、同時に悲しい事に、人件費の削減も目的なのである。 つばさは、名曲・名演にも関わらず、オリコンのヒットチャートでは62位が最高だった。名曲名演が必ずしもヒットしないということである。 何故、当時大ヒットしなかったのか。ふしぎでならないのだが、そこまでの聴衆レベル、ということなのではないか。 この作品の価値を理解できる、共鳴できるまでの価値観を持つ聴衆が、思ったより少なかったということなのではないか。 芸術・アーティストとヒットとは必ずしも共存しないということである。しかし、アーティストであるならば、大衆に阿ねるようなことはしてはならない。 それと、この歌は、本田美奈子さん以外、物理的にも歌えない、ということもあるかもしれない
今日のグルーヴ〈362〉
歴史を繙かなくても、平和と戦争の一線を画すのは、一国の元首の決断次第である。 国の運命を左右するのは、元首という地位の名称を付帯していようが、一個人である。 一国の元首と言えども、体調の良い日もあれば良くない日もある。決断の良い日もあれば、良くない日もある。 そのようなことを考えると、国の運命というのは、実に心許ない。 しかし、神様でもないかぎり、完璧な人間というのはまず存在しないだろう。 とは言え、誰かに国の運命を託さざるを得ないとなれば、先の大戦のような後悔はしたくない。 ゆえに、首相は、直接選挙で決められるべきではないのか。間接選挙では、国民にとって他人事であるという感覚である。 尤も衆愚政治になる危険性もあるが、そうなったら、それまでの民度である、ということである。
今日のグルーヴ〈361〉
毎年、この季節になると、戦争を振り返る報道がテレビ等でたくさんなされているが、以前では知らされなかった新しい史実がどんどん明らかになってきている。 特にアメリカにある資料が開放されてきているためであろう。 戦争直後から数十年程度は、戦争に関わる当事者が存命なために、極秘な部分もあったのだろう。 戦争を語ることのできる人がどんどんいなくなり、後世に戦争の悲惨さが継承されていかないのではないかという懸念の反面、史実が、映像や録音や文献で明らかになるということもある。 しかし、いろいろ知れば知るほど恐ろしいのは、人間は、一歩間違えば、神にも悪魔にもなるということである。 おそらく人間性というのは、一面だけで語られるものではなく、少なくとも二面性以上あるということである。 簡単に言えば、一人の人間が、真逆の感情や思想を持つ、ということである。 しかも、戦争という極限状態においても、その行動を左右するのは、普段生活しているときとさほど変わらない、邪悪な観念である。 具体的に言えば、欲望、恐怖、焦り、怒り、嫉妬、憎悪といった邪悪な感情である。 どんなに立派な
今日のグルーヴ〈360〉
伏線を張る、ということは人生は計算づくであるということだ。 計算するという意味で似たような言葉に、あまり良い意味ではないが、釜を掛ける、という言葉もある。 あるいは、含みをもたせる、示唆する、匂わせる、それとなく言う…といった言葉がある。 いずれにしても、このような概念は私が最も苦手とするところである。 高校生の頃、親友に、お前は計算して会話をしないところが良い、と言われて初めて計算して会話をするということがあるのか、と思ったくらいである。 そう言われても、その後も計算して会話をするということは苦手だった。 ただ、相手からは様々な示唆的な言葉をもらったに違いない。しかし気がつかない場合も多々あったに違いない。勿論、すべて気づかないほど鈍くはない。(はずである。) 相手によって言葉遣いに気をつけることは大切であるし、言葉のチョイスはむしろ楽しみではあるが、相手が誰であろうと、お互い計算尽くの会話で有意義な会話ができるとはいまだに思わない。 それは、自らグルーヴをスポイルする行為であるし、そこに新たなグルーヴは生まれない。 計算づくの演奏は予定調和に
今日のグルーヴ〈359〉
映画やドラマでは、伏線を張ることが常であるが、イタリア映画は伏線だらけで、しかもその伏線は、すべて女性や家族に対するサービスが根底にあって、イタリアのお父さんと日本のお父さんは、本当に大変である。 例えば、イタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」は、最初から最後まで伏線しかないのではないか、と思われる勢いである。 ユダヤ系イタリア人のグイドが、一目惚れした女性を徹底的に伏線を張って妻にし、ホロコーストという状況の中でも、妻や子供のために、死の直前まで明るく勇気づける感動的なストーリーである。 主人公が行なうあらゆる伏線は、常に自分以外の人へのサービスなのである。 勿論、頭の下がる思いであり、男はこうでなくてはいけないのであろうが、ここまでやるのがイタリア人男の標準だとしたら、私はイタリア人でなくて良かったという思いだ。 とはいえ、実際の人生にも後から振り返れば、イタリア人のような積極的な伏線ではなく、受け身であるが、伏線というのは、多々ある。 例えば、初めて行った所にも関わらず、何か他とは印象が違って心に残ったりすると、後々、その場所へ毎日通
今日のグルーヴ〈358〉
高校二年の息子の吹奏楽コンクールは早々に終わったが、コンクールは勝ち負けであるから、勝ちに拘るのであれば、勝つ方法をとらなければ勝てない。 逆に言えば、現状にあった勝てる方法をとれば、どこの楽団でも、楽器の経験年数が短くても、簡単に勝てる、ということである。 世界的な奏者やオリンピックの選手のような特別な才能がなくても、誰でも勝つ喜びを味わうことができるのである。 ただし、指導者は優れていなければならない。指導者と楽員との差があればあるほど、楽団は伸びる。 しかし、ここで最も難しい問題は、楽員は指導者の言いなりにならなければならないことである。異なった考え方や、自己主張する人がいては、コンクールで勝つことは難しい。 善し悪しは別にして、気持ちのベクトルの方向性が一致しないままコンクールに参加しても、結局は妥協の連続、消化不良になってしまうだろう。 ゆえに、内心はどうあれ、見かけ上、最も“統率”がとれている団体が勝つのである。 しかしながら、ここに芸術といった概念はない。芸術とコンクールとは全く相容れにくいものである。また、ズレを認めない吹奏楽にグ
今日のグルーヴ〈357〉
アーティストというのは、伝統をリスペクトしつつも打破する人である。 あらゆる分野でアーティストはいる。 例えば、将棋はたった81マスしかない世界にもかかわらず、コンピュータを活用してさらに新手が創造され続けている。 我こそは一番強いと思う人ばかりが、プロになっていくのだろうが、その中から勝ち抜いて実績を上げるような人は、常識や定跡にとらわれない神がかったような一手を指すように思える。 誰もが想像もできなかった手を差して勝っていく。それは、勝負師というより、アーティスト、つまり芸術家なのではないか。 野球も、我こそは一番巧いと思うような人がプロになっていくのだろうが、入ってみたら、自分が一番下手だったということになりかねない。そこで、伝統や常識にとらわれずに新たな方法を見つけ出す人が、歴史に残る選手になっているように思える。 バッハもモーツァルトもベートーヴェン、そして音楽史に燦然と輝くような作曲家は、結局は、誰もやってこなかったことをやったような人なのではないか。 作曲も演奏も他の人の追随ではやる意味がない、と言ってみたい。 ただ、伝統がなければ
今日のグルーヴ〈356〉
ふと思った。アーティストとアーティストでない人との違いとは何か。 アーティストでない人は、どんなに楽器が上手くてもアーティストではない。 楽器が上手な人はたくさんいる。でもそれだけではアーティストではない。 アーティストは、誰かより上手いとか下手とか、そのような対象にはならない。比較の対象になった時点で、アーティストではないのではないか。 楽器を巧みに弾くことと、その人でなければできないものを作ることとは別である。楽器が上手かろうが、それが人に与える印象は、アーティストが人に与える強烈な印象とは別ものである。 そもそもアーティストは、音楽でなくても、他の分野においてもアーティストであるに違いない。つまり、形態がなんであろうと、生まれ持ったものを持って表現する人であるから、楽器でなかったとしても、何かしら発信する道を選びだすだろう。 そして、発信するものは、えっ!と思わせる何かを必ずもっている。 つまりアーティストとは、唯一無二な新しい価値観を作る人であり、誰かの追随ではない。 つまり、アーティストとは、今までの価値観を壊して、新しい価値観を創造す


今日のグルーヴ〈355〉
8月12日は、巨匠ヴァイオリニストのジェラール・プーレ氏の79回目の誕生日である。数え年では傘寿。彼のファン、彼を慕う大勢の生徒さん、そして音楽仲間が彼の誕生日を祝った。 会はプーレ氏と生徒さん、音楽仲間によるコンサート形式で行なわれた。プーレ氏の十八番(おはこ)であるドビュッシーのヴァイオリン・ソナタも演奏された。この名曲は、プーレ氏の父であるヴァイオリニストのガストン・プーレに、ドビュッシーが助言を求めて作られた作品である。 当然ながらプーレ氏は、父ガストンからドビュッシー直伝の話を伝授されていて、プーレ氏の演奏は言わば本家本元であり、この作品は正にプーレ氏の家宝である。 プーレ氏とピアニストの川島余里さんによるドビュッシーのヴァイオリン・ソナタの演奏は、数え切れないくらい聴いた。いつも素晴らしいのは当然のことながら、今なお、進化し続けていることにいつも感銘を受ける。聴く度に、新しい発見、表現、表情を我々に与えてくれる。 ガストンとドビュッシーとの交流は、弦楽四重奏団を主宰していたガストンが、ドビュッシーの弦楽四重奏曲の演奏をドビュッシーの前
今日のグルーヴ〈354〉
散文は、俳句や短歌のような定型や韻律や詠嘆を持たないが、文体というものがある。 勿論、散文も定型や韻律や詠嘆を持っていけない理由はないだろう。 言葉の選び方、削り方は、俳句に学ぶところがあるような気がする。 五七五しかない俳句では、極力いらない言葉を削らなければならない。その行為が頭の中を整理してくれるし、感性、感受性を磨いてくれるような気がする。。 勿論短歌もそうなのだろうが、ただ短歌の方が、言葉を捨てないで救ってくれるような気がする。だから、どちらかというと、俳句より、短歌の方が好きなのである。 削って削って、美しい彫刻のように仕上げていく孤高の俳句に対し、短歌は思いの丈を述べるスペースを作ってくれる人間臭さがある。 万葉集や古今和歌集には、傑作が目白押しだが、小倉百人一首は、選んだ人のセンスが抜群なのか、全てが絶品である。 子供の頃、正月には家族で小倉百人一首で歌留多を楽しんだものだ。母が読み手で、いつも読むことを楽しみにしていた。私は意味も分からず、数多く札を取ることばかり考えていたが、結局はいつも負けていた。全てを完璧に暗記しているよう