今日のグルーヴ〈314〉
中学の頃、点数と勝負にこだわる授業を展開する先生がいた。 初めて、この先生が発した言葉は、「去年、これまでで最高点の3776点が出た生徒がいてね、感動したねぇ。今年も期待しているからね」 私は最初いったい何を言っているのか分からなかったが、授業が始まって唖然とした。 昔、中学や高校の先生が持っている手帳のようなものを閻魔帳と言っていたものだ。閻魔帳には、生徒ごとに点数の集計が書いてあるのだが、普通、定期テストの点数だけが書いてあるものだ。だがこの先生の閻魔帳には、普段の授業での“点数”も書いてあるのだ。 まず、授業で先生が問いを発する。だいたい簡単な問いである。この先生の授業は問いだけで成り立っていると言っても良いくらいである。先生の問いに答えられた者は、即座にその場で、閻魔帳に10点とか20点とか書き加えられるのである。授業態度が悪いと、マイナス点が書き加えられる。 先生の問いにできるだけたくさん答えることが、この学科で良い成績を取る方法である、ということに気づくのに時間はかからない。 生徒達はこぞって手を挙げ、先生に指名されようとする。しかし
今日のグルーヴ〈313〉
小学校から現在に至るまで、いろいろな先生と遭遇したが、思い出すと、様々な個性の持ち主の目白押しであった。 いろいろな個性の先生と出会うということも、勉強の一つなのではないか。 クラスの仲間との出会いは勉強にしたくはないが、学校の先生というのは、一人の人間をじっくり観察し、勉強する上で格好の題材のように思える。 先生も人間であるから、完璧でないのは当然ではあるが、子供心にも、この先生はいったいどういうつもりなのか、疑問に思うことも多々あった。 振り返れば、尊敬できる先生よりも、疑問に思う先生の方が圧倒的に記憶に残っている。これはこれで勉強になるのである。 小学校の高学年になると、低学年の教室の掃除も義務でさせられたのだが、ある低学年のクラスの女性の先生が、掃除の仕方が良くない、と言っていつも怒っていた。我々上級生としては、きちんとやっているつもりであったが、毎回必ず感情的に怒るので、ほとんど、言いがかりにしか聞こえなかった。 口を開けば怒っている、という人だった。なんでこんなに怒ってばかりいるのか、不思議だった。ヒステリーとか、ハラスメントという言
今日のグルーヴ〈312〉
AIは、作曲もしてくれるという。脳波を測定して、その人に合った音楽を即座に作って演奏してくれるのだという。 こうなると、作曲家の仕事も奪われるのではないか、と思うのだが、開発者は、むしろ、作曲家のアイディアが増えてたくさん作品ができる、と言う。 確かに、アイディアに行き詰まる、ということは無くなるかもしれない。 まずは、人口の数ほどの作品ができ、次に、おそらく、一人の人間にも、いろいろな気分の状態があるだろうから、人口の数倍から数十倍の作品ができるのではないか。そうなると、人間が生まれ続ける限り、ほぼ、枯渇することはないのではないか。 作曲家は、五線紙の世界から離れ、様々な人間の脳波を測定するところから作曲の作業が始まるだろう。 しかし、何も作曲家に測定を任せることもない。自らAIを駆使し脳波を測定して、自分が聴きたい曲は、自分で作曲する、ということもできるだろう。 五線紙を使わなくても、打ち込み作業でデータを作っていけば、常にヴァージョンアップしてゆけるから、誰にでもそれなりに作曲ができる時代が来るだろう。 そうすると、作曲家は無くなるか。それ
今日のグルーヴ〈311〉
AI(人工知能)は、あらゆる分野で使われ始めている。政治、経済、司法、教育、文化、芸術、医療、機械…つまり、すべての世界で登場しようとしているのである。 会社の経営もAIに判断を仰ぐ。実際、タクシー業界では、AIによって効率的な営業を開始している。 すでにコンビニなどでは、需要と供給を分析して効率的な販売を展開しているが、今後さらに精度を増していくのであろう。 また司法が下す量刑もAIに判断させ始めている国もある。 AIは、大量のデータを蓄積することによって、能力が成長するらしい。AIを開発した開発者自ら、何故、AIが成長していくのか分からない、と言っている。もう、そういう時代なのである。 ゆくゆくは、政治判断もAIに任せる時代が来るのではないか。そうすれば、極端に言えば、議員も必要最小限に減り。公務員も大幅に縮小するのでは無いか。 あくまでも、AIが下す判断は、参考であって、最終的に判断を下すのは、人間である、とは言われている。それに、AIに任せて、もしその判断が間違っていたらいったい誰が責任をとるのか、という懸念もある。 しかし、疲れやすい宿
今日のグルーヴ〈310〉
藤井聡太四段の棋譜は、他のプロの棋士でも、わくわくするくらいの“作品”であるという。 定跡や過去の棋譜の研究を元に、あとは、その場で考えて差していく将棋は、テーマを元に、アドリブで展開していく演奏と、共通のものがあるように思える。 ただ、そこに勝負が絡んでくるところが、音楽と異なるところなのかな、と思ったのだが、棋譜が“作品”と言われれば、まったく同じであると思い直した。 そして、天才的な人が現われると、音楽も将棋も新たなステージに登るのも共通していると思った。 私自身、将棋は、子供の頃から時々やってきたものの、基礎となる定跡等を勉強してこなかったので、一向に強くならないが、対局を見たり、棋譜を見たりすることは好きであるし、将棋の強さも分かるような気がする。 そのような私でも、棋譜を見ると、凄いなぁ、と感嘆する。劣勢をいつの間にか、逆転しているところも、唖然とする。実は劣勢ではなかったのか、とさえ思う。 彼の将棋のどの部分が強くて凄いのか、分からないが、勝つ。プロの棋士も、そういうところが凄いと言っている。分析しても分からないのかもしれない。 天
今日のグルーヴ〈309〉
ベートーヴェンのシンフォニーに畏敬の念、畏怖の念を持って演奏したりすることは下手をすると大きな勘違い、誤解に繋がるように思える。 ベートーヴェンを、人の名前でなく、サーとかナイトといった勲位の敬称だと思い込んでいた、という人がかつていた。 これは正に日本のベートーヴェン教育の“賜”である。楽聖ベートーヴェン、と言ってみたり、クラシック史上最大の作曲家と言ってみたり(何が最大なのか分からない)、 何のためにベートーヴェンを奉ったのであろうか。実際、ベートーヴェンの事を良く言わないと、とんでもない、ということで抗議されることもある。 私は、ベートーヴェンは偉大な作曲家だとは思うが、だから、作品が崇高でクラシック史上最高の音楽、というふうには思えないし、そう思って演奏したら、それは重大な誤解なのではないか、と思うのである。 ベートーヴェンの九つのシンフォニーに対して、聴衆だけでなく、後に続く作曲家達も畏敬の念を持っていた。シューベルト、ブラームス、マーラー‥。 ブラームスは、ベートーヴェンを尊敬するあまり、最初のシンフォニーを作ったのは40歳を過ぎてか
今日のグルーヴ〈308〉
メトロノーム、チューナーの使い方を間違えると、グルーヴが破壊される。 吹奏楽の世界では、金科玉条の如く、テンポが走ってはいけない、アインザッツを正確に、縦の線と横の線を合わせて、と指導者から言われ、メトロノームやオルガンやチューナーを駆使して練習するが、これは、アマチュアの楽団が、演奏レベルの高くない奏者のために、交通整理の窮余の策として用いたのであって、これらに頼り切ることは、人間である演奏者のグルーヴを失うことになると私は思えてならない。 これらの機械は、目安としては便利であるし、活用すべきものであるが、頼り切ると、つまり、トレーニングのためのツールにしてしまったら、最も重要で大切な人間らしさやグルーヴが、失われていくだろう。 具体的に言えば、人間の自然の理として、テンポというは、動くもの、総じて速くなっていくものであるが、吹奏楽の練習では、それは絶対に許されない。少しでも速くなろうものなら、『速い、走るな!』と注意されるのである。 吹奏楽の指導は、4つの言葉でできる。 すなわち『速い!』『遅い!』『高い!』『低い!』 これらの機械をめいっぱ
今日のグルーヴ〈307〉
女性は観音菩薩なのか阿修羅なのか。 女性が観音菩薩になるか阿修羅になるかは、私の場合、私次第なのではないか、と自戒を込めて思う。 ただ、最後の最後の言葉で『愛してる』。こんなことを言われたら男は堪らないだろう。 若くして逝かれたのは痛ましくやり切れないことではあるが、でも、人生の最後でこの言葉を紡いだということは、とても幸せなことなのではないだろうか。 何故なら、人間は、死ぬときに、なかなか美しくは死ねないからだ。 にもかかわらず、このような尊い言葉で人生を締めくくることができたことは、人間として、これ以上の幸福はないのではないか。私はそう思いたい。 観音菩薩であるからこそ、このような言葉を残すことができるのではないか。
今日のグルーヴ〈306〉
AI時代を本格的に迎えるという。そもそもAIとは何か。確認すると、“人工知能”であるという。 人間が知能を使ってすることをコンピュータ等にさせようとするものらしい。 しかし、そもそもコンピュータというのは、人間が知能を使ってすることを人間より遙かに速いスピードでやっているわけであるから、コンピュータの出現の頃からAI時代なのではないのか、と思うのが、AIは、それよりさらにずっと先に進んだものらしい。 例えば、将棋や囲碁のコンピュータ・ソフトは、すでに人間に勝つ時代である。これらのソフトは、単に計算するだけでなく、人間の考える読みに勝るとも劣らないのである。 かつて意識を持つようなロボットというのは夢物語だったが、もしかすると、本当に人間に近いロボットが生まれるのかもしれない。 人間の脳の働きが化学変化のようなものであれば、人間も、そもそもロボットなのではないか、と思ったりもする。マーク・トウェインの『人間とは何か』は、人間機械論である。読むほどに、反論できず、恐ろしくなる論であるが、あながち絵空事ではないように思える。 人間がロボットと違うのは、
今日のグルーヴ〈305〉
日本国憲法は、改めて読んでみると、理想を掲げた理想的な憲法であると思った。 憲法は、ひとつの継続的な理想をかかげたものであるという側面もあると思う。だから理想が実現できないからといって、また現実とかけ離れているからといって理想を低めたり変えたりするのはおかしい。 勿論、理想はあくまで理想であって現実ではない。すぐに実現できないものもある。しかし直ちに実行できるものもある。 いずれにしても理想を目指すことに国家の使命があるわけで、現実と合わないからといって、安易に憲法を変えるのはおかしい。 そして憲法内で矛盾があっては理想の憲法とは言えないのではないか。特に第九条は、人類の理想で有り悲願である。ここに矛盾があってはならない。 GHQから押し付けられた、と言われているし、そのように思われがちであるが、必ずしも全部が全部、押し付けられたものではないらしい。 日本国憲法を作る過程を調べてみると、一方的に押し付けられたわけではないようである。言ってみれば、日米の合作のようにも思える。 いずれにしても、きっかけに囚われていてもしかたない。 問題は中身である。