今日のグルーヴ〈482〉
日本には、いまだに孝行という古くさい儒教観を強要する風潮があるが、これは、個人的なものであって、人に強要されるものでない。 教育の場では声高に言われているが、教師によっては偽善になる。 昨今、ろくでもない親のニュースが頻繁に流れてくることもあって、なおさらその意を強くしているが、そもそも、このような個人的な思いを人に言われたくないのである。 この歳になって確信するのは、人は説得されないということである。表面上、説得されたふりをするだけである。 自分の根源的な思いというものは自分が変わらない限り変わらない。主観というものは、自分でしか変えられないのである。 子を持って知る親の有り難み、という言葉があるが、子を持って知るのは、子に対する呵責の念である。 健やかに育ってくれるだけで、それはおつりが有り余るくらいの孝行である。これ以上、いったい何を子に求めるというのか。
今日のグルーヴ〈481〉
三島由紀夫は、音楽が「触れてくる芸術」として苦手だったらしいが、それは、音楽に、言い換えればグルーヴにやられてしまうからなのではないか。 しかし、自ら発信する文体は、グルーヴ感満載である。例えば、随筆「不道徳教育講座」は、グルーヴそのものである。 「不道徳教育講座」というのは、逆説的なタイトルであって、不道徳を推奨することによって、結局は道徳を説いているのである。 この随筆の持つ説得力は、まさにグルーヴによるところが大きい。グルーヴ感のある演奏に共感を覚えるのと一緒である。 たとえ、書いてある内容が仮に間違ったことであったとしても、その間違いは許せてしまうし、同じ意見だったとすれば、さらに共鳴してしまうだろう。オルグそのものである。 グルーヴはオルグするには最高の武器なのである。 人間は、人から説得はされない。特に男は、教えられてたまるか、といった損な性格を持っている。しかし、オルグはされてしまうのである。そのオルグの理由はグルーヴなのである。 さらに日本人は、情緒に弱いところがある。宗教には無頓着で寛容なところがあり、神道、仏教、キリスト教を違
今日のグルーヴ〈480〉
週休二日では少ない。三日にすべきという声が巷にあるが、昔のことを思うと隔世の感がある。 1980年代頃までは、日曜、休日は暦通り休みで、土曜日は昼まで、つまり半ドンがあった。週休二日ではないが、土曜日の半ドンというのは、結構嬉しかったものだ。 週休二日制が普及して、半ドンというのはほとんど無くなったようであるが、半ドンが無くなると、たとえ週休二日でも、半ドンの喜びがなくなり、あまり嬉しくなかったように思う。 尤も、かつて週休二日どころか、月休二日のような働き方をしていたから、贅沢は言えない。 ただ、休みが増えるのは一見有り難そうであるが、週休三日で仕事ができるだろうか、という疑問がある。 能力的にも体力的にも充実している三十代、四十代で、週休三日で、仕事の継続性が保たれるのだろうか。 楽器の練習を一日サボったら、取り戻すのに三日かかる、と言われている。楽器の練習を三日休んだら、いったいどうなるのか、想像するだに恐ろしい。 仕事も同じなのではないか。いくら計画を立てても、三日も間が開けば、頭も体も鈍り、月曜日は仕事を思い出すだけで終わってしまうだろ
今日のグルーヴ〈479〉
相続の問題は、法律に則ったとしても、状況や場合によっては、それまでの生活を根本から崩壊されてしまうことさえあることにある。 法律に則る場合、現在の法律は一定の原則を設けているが、これは、各家庭の状況というものを全く顧みていないわけで、杓子定規にすることが、状況によっては、著しく生活を損なわせる場合もある。 その点で、法の機関は頼ることはできないし、あてにはならない。 この問題は、子孫にまでずっと後をひく場合も多々あるので、根本的な解決は、被相続人が遺言を書くことにある。 遺言という言葉自体、自分の死を予感するかのごとく忌み嫌う人もいるが、そもそも、人間は全員が生まれた瞬間から死に向かっているのである。いやだと言っても、これだけは絶対の真理である。 遺言というものに対して、高齢者は高齢者だけのものと思っている節があるが、遺言は高齢者だけのものではない。軍人も書いているし、問題に気づいた若い人も書く。 勿論、状況は、年々変化していくわけであるから、毎年、盆暮れに書き換えていけばいいわけで、年賀状を書くより、こちらの方がはるかに重要だと私は思う。 とい
今日のグルーヴ〈478〉
高齢化社会では、大きく介護、相続に問題が集約してくるように思える。両方とも自分に起きた問題であるが、ということは世の中の大半の方々は、この問題に多かれ少なかれ遭遇することになるだろう。 介護には家庭環境問題、人間関係、生活の問題が含まれる。 介護の問題であるが、家で介護するのは相当大変である。高齢であっても健康寿命が高ければ問題は減少するが、たいていは、健康寿命と命の寿命とには差がある。その差が大きければ大きいほど大変な時期が長くなるのである。 家での介護の境目の一つは、下(しも)の問題である。万物の霊長とも言われる人間に、生まれたときと死ぬときに何故、下の問題があるのか不思議でならないが、現実はそうである。 大昔、寿命が現代ほどではない頃、下の問題は今ほどではなかったのではないか。下の問題が起きる前に、人間は寿命を迎えていたのではないか、と想像する。 文明が発達すればするほど、医学が発達すればするほど、理性が発達すればするほど、下の問題は取り残されていったのではないか。 若い頃は、下の問題など、想像できないが、高齢化社会では、ほぼ誰もが遭遇する
今日のグルーヴ〈477〉
弟子が自分から離れて他者へ行くことへの嫉妬という問題は、どの分野でもあるようだ。 音楽の世界でもたくさん見てきた。現在は、そのようなことは閉鎖的なことであるということで、嫌悪する著名な先生も増え、開放的な方も多くなり、かつてほどではないが、それでも根絶されたわけではない。 弟子が離れて行くことのさびしさ、他者に就いていくことへの嫉妬、傷ついた自尊心というのは、理解できないことはない。可愛さ余って憎さ百倍、ということもあるかもしれない。 弟子が、自らの判断で、師匠の下を去ると決断したならば、それは、指導者として、本当は最高の成功なのではないだろうか。 それが積極的な意味であるならば、なおさら成功だが、たとえ相性が良くない等の積極的でない意味であっても、決断させたのは成功と思いたい。 教師の役目の最も大きなものは、逆説的であるが、自分を必要とされないように生徒を育てることなのではないか。 生徒がいつまでも、ある師匠の弟子である、ということを冠にしている存在だとしたら、それは師匠としては、失敗なのではないか。 新たなものを新たな世界で学びたい、と生徒に
今日のグルーヴ〈476〉
ネットの隆盛とともにマスメディアへの信用もかなり落ちてきているが、そもそも、メディアを無闇に信用すること自体が間違っている。 メディアの情報と言っても、人間が携わっているものである。フェイクニュースは論外だが、ちゃんと取材したり、裏付けをとったりすれば良い方だが、それすら、記者のフィルターがかかっているし、誤解して取材するということもあり得る。 メディアの端くれにいた者として思うのは、事実を100パーセント伝えることは不可能である、ということである。 例えば、情報の現場にいたとしても、物事には様々な側面があるから、人によって捉え方が異なるのである。事実を100パーセント知っている人は、お天道様くらいしかいないのである。 というわけで、私はインタヴュー記事に関しては、対象は、ほとんどが演奏家や音楽家、先生であったが、できるだけご本人が言いたいことをそのまま伝えるようにした。そしてできるだけ原稿をご本人に確認してもらうようにした。 ゆえに、s私の記事は長い、とよく言われたものである。 ただし、中には私の原稿を下書きにして、原稿を作り直してくる方もいて