今日のグルーヴ〈452〉
年中、イベントだらけの世の中になったわりには、暮れから正月の季節感が妙に無くなった。 以前は、年末から大晦日にかけて、何故か慌ただしい雰囲気で、何もかもせわしなかったが、それが情緒を生み出していた。ところが、正月を迎えたとたん、さっきまでのうきうきした気分は何故か雲散霧消したものだ。 一年中イベントだらけの時代に、人々は疲れたのだろうか。海外でも特に正月休みのイベントがあるわけでもない。 私にとっては、おせち料理をかつてほど自分で作らなくなったことが大きいかもしれない。子供の頃、おせち料理の下準備をするのが私の役目だった。 おせちを作る理由のひとつとして、正月にはすべてのお店が休みになるから、というのがあった。 まず、きんとんを作るために、さつまいもを蒸し、すじを取るためにしゃもじを使って裏ごしするのである。裏ごしは、ものすごく疲れる作業だった。そのあげく私はきんとんは好きではなかったので食べたことはなかった。自分で食べるわけでもないのに、何故この作業を素直にやっていたのか今更ながら不思議である。 そして、大根とにんじんのお酢和えを作るために、大
今日のグルーヴ〈451〉
かつて、移動時間というものは無駄だと思っていた。特に歩く時間は勿体ない。歩くこと以外、なにもできない時間帯である。 思索の時間? そう言えば、ベートーヴェンは、よく散歩したという。ベートーヴェンの散歩道を歩いたことがあるが、意外と短かった。何の変哲もない道だった。ベートーヴェンが周りの景色を見たくて歩いたとは思えない。ただひたすらに散歩に集中していたのではないだろうか。ベートーヴェンは、散歩の恩恵というものを体験的に知っていたのだろう。 仕事やアイディアに詰まったとき、あるいは落ち着かないとき、人々は、家を出て散歩をする。家の中でじっとしていることが耐えられる人は、ふだん充実している人である。散歩は人間が編み出した最高の叡智の一つである。 休日、本当は家でゆっくりしたい。家での過ごし方の理想は、日本茶、あるいはコーヒー、紅茶を飲み、蜜柑を食べながらラグビーの試合を見る。さらに、周りの景色に恵まれ、ジャグジーがあり、コンピュータ機器に囲まれ、さらには、防音室で音量を気にせず、音楽を聴く。 しかし、現実は、部屋の散らかりに、掃除をせねば、という強迫観
今日のグルーヴ〈450〉
もし、一万数千円のプラスチックのトランペットで十分ということが、認識として浸透したら、業界は大混乱になるだろうか。 おそらく、何も変わらないような気がする。 プラスチック製のトランペットも、トランペットの音がする。見た目はおもちゃのようなトランペットであるが、ピストンもスムーズであるし、マウスピースも違和感がない。 オーケストラでこの楽器を使ったら、どのような反応が起きるのだろうか。私は、おそらく、オケでも吹奏楽でも、あるいはソロでも、プラスチック製の楽器で十分なのではないか、と想像する。 しかし、おそらく木管の人達や弦楽器の人からは奇異の目で見られるような気がする。そもそも、カレッジモデルのケースで現われただけで疑いの目で見られるくらいの世界である。 勿論、伝統的な材質で作られた楽器は、いい音がするだろうし、吹き手にとっての満足感は、何にも代え難いものだ。ただ、吹き手が感じるほど、大多数の聴衆が違いを聞き分けられるとは思えない。 そもそも、一般の聴衆で、大量生産のヴァイオリンと名器とを聞き分けられる人はまずいない(誤解のないように書き添えるが、
今日のグルーヴ〈449〉
外字。この言葉にはぞっとしたものだ。外字は目の上のたんこぶのようなものだった。しかし、この度、外字5万字が15年かけて文字コードに登録されたというニュースがあった。 外字に出くわすことは意外に多かった。印刷に関わる場合、仕方なく、作字を行なうのだが、これが非常に面倒であった。 印刷をしない場合でも、パソコンには外字は出てこないし、作字ということをしても、デジタルデータとしては意味が無いので、外字を使わないようにするか、文章で字の構造を説明したりしたものだ。 しかし、それでも間に合わない場合、そこはゲタをはかされた状態になるか、文字化けという実に時代錯誤のような話だったのである。 欧米の文字の数に比べればまさに桁違いの文字数であるから、文字コードに登録することは大変なことであったとは思うが、コンピュータの時代がこれほど進んでいるにもかかわらず、このあたりの遅れというのは、実に歯がゆい思いだった。 しかし、これで外字にとらわれることなく、コンピュータで文章を書くことができると思うと、あるいは文字化けから解放されると思うと、これでほぼ日本語入力は、ほぼ
今日のグルーヴ〈448〉
近年、メディアに対する不信が、世界的に政治家から国民まで広がっている。頑なにメディアに沈黙を続けたり批判したりする人は、既存のメディアを全く信用していないに違いない。メディアの端くれにいた者として、それは正しいと言いたい。 そもそも、事実がそのまま伝わることはかなり難しいことである。正確に伝えようとしたとしても、かなり難しいということは、我々は伝言ゲームの経験から知っている。 にもかかわらずさらに悪質なのは、何を伝え何を伝えないのか、そういった恣意の下、都合のいいように情報を組み立てることである。 いくらでも世論を誘導することができるのである。勿論現代では、それは周知のことであるが、それでもいまだに誘導されてしまうのである。 編集者やジャーナリストは、文字通り情報の取捨選択が仕事のようなものであるから、情報の操作が得意である。 編集者、ジャーナリストは、本来は黒子であるべきだと私は思うが、人の言動を材料にして、自分の主張をする人もいる。情報に対して、率直な感想や意見を言う事とは似て非なる行為である。主張したいものがあるのであれば、自らの名の下に主
今日のグルーヴ〈447〉
人寄せパンダという言葉で代表されるように、すべて経済は、人を引き寄せる魅力のある商品でなければ成り立たない。 話題を作り、イベントを増やし続けなければならない。クリスマス、正月、節分、バレンタイン、端午の節句、ゴールデンウィーク、こどもの日、ジュンブライド、七夕、盆踊り、夏祭り、秋祭り、近年もたらされたハロウィン、ボジョレーヌーボー解禁、… 一年というのは日常の積み重ねではなく、行事イベントで成り立っている、としか思えないくらいである。 とにかく、人々をうきうきさせるものであれば何でも良いのである。人間は情緒の生き物であり、情緒という生ものが経済を発展させ、株を上げるのである。 今また、パンダの事が騒がれている状況は、私の高校生の頃、初めて日本にパンダが来たときと何も変わっていない。政治やマスコミに踊らされている状況は過去から未来永劫変わらないのかもしれない。 尤も、いいように踊らされなければ、経済は成り立たないということが分かっていて、人々は騙されたふりをしているとしたら、人間の本質を根底から考え直さなければならない。 ところで、もしパンダでな
今日のグルーヴ〈446〉
久しぶりの氷点下というのは、やはり寒い。しかし、子供の頃、冬はそういうものだったし、霜が降りることが普通だった。また、サッシでない時代、隙間風は普通で、朝起きたら、枕元の雪にも驚かなかった。 今は、給湯器は当たり前だが、昔、すぐお湯が出るようなことはなく、真冬でも冷たい水で、食器を洗ったものだ。湯沸かし器で、お湯が出る生活が始まった時、あまりの暖かさに感動したものだ。 現代文明は有り難い。しかし、人間はだんだんとそういう有り難さに麻痺し、当たり前だと思うようになる。しかし、ひとたび給湯器が故障したり壊れたならば、その有り難さが文字通り身に凍みるのである。 自家用車が今ほど普及していなかった時代、車に乗ることは特別な事だった。しかし、今ではこれも当たり前である。しかし、バッテリーがあがった瞬間、魔法の箱は、鉄の塊に豹変する。 電気冷蔵庫が一般的でなかった時代、氷の塊で冷やす冷蔵庫だった。だいたい、一日で、氷は溶ける。 電気洗濯機が一般的でなかった時代、主婦は洗濯板で選択したものだ。その昔、専業主婦の時代、主婦は、朝から晩まで食事の用意、選択、掃除、
今日のグルーヴ〈445〉
我が子の心身の成長の速さに改めて驚いた。ふと、気がついたら、様々なことを教えてもらうようになっていた。 息子が中学生の頃、すでに腕相撲では勝てなくなったが、高校生の今、勉強のことや法的な事で、教えてもらうようになった。柔軟な思考や記憶力からもたらされる説明にも説得力がある。 来年中学生になる娘は、ヒップホップ系のジャズ・ダンスをしているのであるが、久しぶりに踊っているところを見たら、まるで私にはない世界を表現していることにびっくりした。 子供の心身の成長の速さというのは、自分が歳をとったこともあるが、すでに成長というものがとっくに終わっている今、驚異的である。頭の柔軟性には、まるでかなわない。 以前、作曲でヴァイオリニストの玉木宏樹先生に、もっと頭を使え! とよく怒られたものだが、いつの間にか、というかそもそもずっと頭を存分に使っていなかったのかもしれない。それを改めて気づかされた。 成長の段階というのは、何にもまして尊い。若さというのは、それだけで宝である。子供達を育てるなどというおこがましいことは言えない。むしろ子供達に教えてもらっていること
今日のグルーヴ〈444〉
マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子さんが金メダルの走り方のコツを話されていた。 踵から着くのではなく、足の裏絶対で着く。 頭の重みを利用して少し俯き加減にしただけで、足は勝手に出ていく。その推進力を利用すれば、ある程度まで疲れずに走る事ができる。 足で走るというより、肘の重みで振り子のように腕を振ると足はついてくる。 疲れてきたら、これらのポイントをチェックしながら走る。だから42,195キロを走りきることができるとのこと。 なるほど、ただ走っているだけではないのである、当たり前ではあるが。選手によって他にもポイントがあるのかもしれないが、このような工夫があってこその金メダルなのである。 聞いてみれば、簡単そうであるが、元々走ることが苦手な私にとっては、絶対に思いつかないことだらけである。 そのほかにも、ポジション取り、スパートのタイミング、走っているときの心理状態など、様々な理念や工夫があることを知った。 どの世界でも、絶対に工夫がある、ということを改めて知る思いだ。ただ漫然とやっているわけではないのである。練習量だけではないのだろう。 とも
今日のグルーヴ〈443〉
う世の達人は、膨大な時間を使って勉強したり練習したりしているとは限らない。膨大な時間を使っても、その勉強の仕方や練習の仕方が良くなければ、無駄になりかねない。 いくら勉強しても練習しても上達しないとすれば、それはそのやり方に問題があるに違いない。 俗に言う頭の良い人というのは、知識の量が豊富で思索も巧みである。まず知識であるが、一度聞いたり読んだり理解しただけで、覚えてしまうのである。 これはおそらく集中力がなせる業に違いない。我々が何度も反芻して覚えることを即座に覚えてしまうのである。 しかし、この能力は達人だけのものだろうか。我々は、好きなこと、興味を持っていること、感銘を受けたことというのは、覚えようとしなくても覚えている。自分にとって感銘を受けた映画であれば、一度見ただけでストーリーを覚えているものである。 歳をとったら記憶力が衰えると言われているが、これは、意図的に記憶力を減退させているか、興味の対象が減ったかである。真に記憶力が衰えることはないはずである。その証拠に、我々は何十年も前の話を克明に話したりすることができるのである。 ゆえ