今日のグルーヴ〈344〉
アルファでありオメガであるもの。 例えば、白米は、竈炊きが一番美味しいが、これは準備も後片付けも大変である。 現代の炊飯器は、何しろ便利である。炊き加減もかなり研究されているが、しかし味は竈炊きには敵わない。 まさに竈炊きは、白米の究極の炊く方法としてアルファでありオメガである。 電気剃刀にしようが、四枚刃にしようが五枚刃にしようが、散髪屋の剃刀の剃り味に敵う剃刀はない(と私は実感する)。 モダン・ボウを開発したトルテの弓が、いまだに最高峰の弓である。 SPレコードの音が、いまだに一番生々しい(雑音は別にして) コンピュータのキーボードの配列は、結局は、タイプライターの配列であるQWERTY配列が残った。 ところで、今、若い人達では、キーボードの入力よりも、スマホでの入力、おそらくフリック入力の方が主であるという。 私もフリック入力をするし、とても便利で重宝しているが、しっかりと文章を書いたりまとめたりするときは、キーボードを使う。 何故なら、打鍵のスピードがまるで違うし、全部で十本の指を使って打つことは、脳やぼけ防止にもいいと言われているし、実
今日のグルーヴ〈343〉
いわゆるクラシック音楽の形態は、ソロ楽器のピアノとのデュオからオーケストラ、オペラまでいろいろあるが、近年、これらの形態での新作の名曲でポピュラーな作品はあるのだろうか。 勉強不足かもしれないが、すぐに思い出せない。 思い出すのは、ポピュラー、ロック、ソウル、アニソン、などである。 いわゆるクラシックは、前衛音楽に行き着いたあと、迷子になってしまったかのようである。 その一因に、メロディ不足があるのではないか。 よく、メロディは枯渇したとか言われる。確かに、ショパン、ブラームス、チャイコフスキーといった大作曲家に美味しいメロディは全部持って行かれた感もなくはない。 しかし、果たしてそうなのうだろうか。 木彫りの彫刻などは、その木の中に、眠っているものを掘り出すのである、という考え方がある。作曲の世界も、大自然、人間、世界、宇宙に眠っている音楽、そしてメロディを紡ぎ出す作業なのではないか。 その作業に枯渇ということがあるのだろうか。 数年前、その壁を打ち破るが如く、彗星のように表われた作品が、スキャンダルまみれだったことが、クラシック作品の誕生不足
今日のグルーヴ〈342〉
原発から出る核のゴミが捨てられる“適地”の地図が、ニュースで流されていたが、それを見て、慄然とした。 http://www.nikkei.com/article/DGXLASGG28H1D_Y7A720C1000000/ 火山地帯以外、ほぼ、日本全国の海岸地帯が挙げられている。 私が住んでいる所も例外ではない。 核のゴミは、地下三百メートルに数万年に亘って、密閉しないといけないらしい。 しかし、どこを掘っても、温泉が出るような日本で、というか、マグマのある地球で、それは無理ではないか、無謀ではないか、もしかしたら暴挙なのではないか、と思えてならない。 仮にそのような施設ができたとして、果たして、ずっと安全なのか、どこかから漏れるのではないか、疑心暗鬼でしかない。素人考えではあるが、素人を納得させられなければいけないのではないか。 核の施設がある自治体では、その見返りに、国からの補助金がある。ゆえに、今、一見、裕福に見える。しかし、その地域の学校施設には、ヨウ素剤が備えられているらしい。そのような事をしなければならないという一点で、原発はやってはい
今日のグルーヴ〈341〉
天気予報は、私の子供の頃は、当たらないものだと思っていた。 ところが、最近の天気予報は私の子供頃よりは、はるかによく当たる、という実感である。 スーパーコンピュータによるところが大きいらしい。 最初の気象衛星ひまわり1号は、1977年からの稼働であるから、私の子供の頃、気象衛星はなかったのである。天気予報が当たる確率が低かったのも宜なるかな。 昔の子供にとって天気予報が重要な場面は、遠足、水泳であった。雨が降ると中止になった。 遠足の時、一学年に5クラスあれば、普通5台のバスにするべきだと思うのだが、私が小学生の頃、大抵、バスは4台で、1クラスは、4つの班に分けられて、4台のバスの補助席に座らされたものである。 子供の頃は、そもそも素直な性格であったからか、疑問に思わなかったが、今思えば、何故、バスを減らすようなことをしたのか。節約? 一つのクラスは、ばらばらにされ、しかも、よそのクラスに間借りしているような気分で、しかも補助席で肩身の狭い思いをするのである。さらに、あのような狭い空間に押し込められたら、具合が悪くなる子も出るだろう。 また雨で中
今日のグルーヴ〈340〉
哲学者の土屋賢二先生は、よっぽど悲惨な状況でなければ、それは奇跡的に恵まれたことなのだ、と言われていた。 毎日のように、事故で怪我をしたり亡くなったりした人のニュースを聞く。昨日までは元気だった人が、そのようなことになるわけである。 病気であるならばある程度の覚悟する時間はあるかもしれないが、不慮の事故では、不条理、理不尽としか言い様がない。 自分もいつ不慮の事故に遭遇するかもしれないと考えると、本当に生きているだけで、奇跡的に恵まれたことなのだと思う。 しかし、人間というのは、現状に慣れると、欲が出てくる。生きているだけで恵まれているでは満足せず、もっと豊かな生活がしたくなるとか、もっと出世したいとか、もっと有名になりたいとか、覇権を持ちたいとか、際限なく欲が出てくる。 万物の霊長と言われる人間であるならば、崇高であるべきなのだろうが、現実はそうはならない。 動物は、例えば、死期を悟ると、自ら死地に赴くらしい。人間は万物の霊長であるにも関わらず、そこまでの覚悟があるようには思えない。 この点で、人間は動物に劣るのではないか。ただし、人間は生まれ
今日のグルーヴ〈339〉
誰もが持っているグルーヴであるが、同じグルーヴというのは、人間の顔が全員違うがごとく、無い。 しかし、全く違うグルーヴを持っている同士が、アンサンブルをすると、まったく新たなグルーヴが作られる。ここにアンサンブルの醍醐味があり、アンサンブルをする意義があるに違いない。 もし、新たなグルーヴが生み出されないのだとしたら、誰かのグルーヴに合わせようとしているからなのではないか、と想像している。 アンサンブルの目的は、ぴったり合わせることにあるのではない。グルーヴを生み出すことにある。だが誰かに合わせるというやり方では、グルーヴは生み出されない。 交通整理をしようとするやり方では、グルーヴは生み出されないし、そもそも、ぴったりのアンサンブルですらない。グルーヴを闘わせるところに、グルーヴは生み出され、結果として、ぴったりのアンサンブルなのである。 ぴったりのアンサンブルは目的では無い。結果である。 グルーヴは、まさに生きるエネルギーであると同時に目的でもある。 アンサンブル全員に積極性があるところにグルーヴが生み出され、聴衆もグルーヴの醍醐味に共感を覚
今日のグルーヴ〈338〉
人を説得することはできない。何故なら、私も説得されたくないからである。 人を説得することは傲慢で驕り高ぶったことである。 例えば、俳句に始まる感銘を受ける文学の中で、共通しているのは素朴な写実、描写である。 作者の感情や考えをことさら著わさなくても、作者の気持ちは十分伝わる。 著わしてしまうと、それはもう胸焼けがするのである。 言葉のチョイス。これは人々に共感を持ってもらうために、書き手が心血を注ぐところであるが、難しい言葉を使っても、あるいはありふれた言葉を使っても、共感を持ってもらうことは困難である。 ゆえに、先人達は、文章を削ることイコール名文という思い込みで文章を書いたのであるが、本当の名人はともかく、一般の人がそれをやると、結局、何も書かない方がまし、ということになりかねない。 素朴な描写、という考え方を他の芸術に応用すると、つまり、音楽に応用すると、それも文学と同じく達人ならばともかく、演奏しない方がよかった、ということになりかねない。 ゆえに、人を説得したい時は、説得してはいけないのであると同時に、説得していないふりをしても見抜かれ
今日のグルーヴ〈337〉
世の中には、絶対に解決しない様々な不条理や理不尽があるが、嫌でもこれらと鉢合う場面が多々ある。ただ、これらにどのように対応、対処するかの選択は自分にある。 例えば、受動喫煙の問題。 言った言わないの問題。 原発の問題。 これらの問題が解決するイメージがまず浮かばない。 私は、煙草をそばで吸われることにどうしようもない嫌悪感がある。おそらく小児喘息だったことがいまだに影響しているのだろう。 嫌煙者の立場から喫煙者と議論したことがかつてあるが、今は議論しない。心の問題ゆえに、しても無駄であるからだ。 言った言わないは、国政レベルでもあのレベルなのだから、一般国民のレベルは推して知るべしである。 原発の問題は、利権等の欲が勝るか、人間の良心が勝るかの問題なのではないか。 心の問題ゆえに、これらの問題には、真っ向から対抗することはできないし、無駄である。 ところで、先人達は、人間の心を説得することより、洗脳、オルグすることを考え、そのために音楽を利用してきた。 例えば、教会音楽で使われるオルガンは文字通りである。ヴァーグナーの音楽はヒトラーに利用された。
今日のグルーヴ〈336〉
グルーヴはそこら中にある。 スピーチにも演説にも、芝居にも、漫才にも、落語にも、そして文章にもある。 音楽のグルーヴはそもそも音楽イコールグルーヴなのではないか、と言いたいくらい、それは命そのものであるが、演説や言葉のグルーヴは諸刃の剣であるかもしれない。 政治家の演説であるが、人々は内容よりもむしろグルーヴ感のある演説に惹かれるのではないか。 極端な事を言えば、内容は二の次で、その演説者が、どのくらいグルーヴを持っているかで、人々は共感していくのだろうと思う。 ゆえに、言葉のグルーヴは恐ろしいのである。何故なら、人々は主義主張やイデオロギーといったものより、勢いのある人、つまりそれはグルーヴ感であるが、その持ち主に心を鷲づかみにされてしまうからである。 例えばヒトラーの演説である。今聞くと、ヒトラーの演説は、何か恐怖のようなものを感じるが、それは後からだから何とでもいえる。同時に、あの捲し立てる演説からは強烈なグルーヴも感じるのである。 事実、当時のドイツ人の多くは、彼の演説に熱狂したのである。それは演説の内容もさることながら、そのスピーチのグ
今日のグルーヴ〈335〉
世の中には、様々な製品が発売され、進化しているが、最初で最後のような、最初から完成されたものというものが多々あるのではないか。 例えば、ヴァイオリンの弓。モダンの形になったのは、トルテやペカットの時代だが、それ以降、それらを上回る弓を見つけることは至難の業である。 日本ではシャンプーは目まぐるしく変化するが、一方で長く続くものもある。それらは最初で最後のような完成されたものだからなのではないか。 例えば、私にとっては、森永ミルクキャラメルは、最初で最後のキャラメルである。このキャラメルの登場は、1913年である。すでに一世紀を超しているのである。にも関わらず現在に至るまでパッケージデザインも、そしておそらく味も、ほぼずっと維持しているのである。 板チョコの定番、明治のミルクチョコレートの誕生は1926年。値段は私が子供の頃から100円である。その当時は、とても高価で滅多に買えなかった。今は見かけないが、ふた回りくらい小ぶりの板チョコを買ったものだ。いまだに100円前後というのはすごい。 ビスコ。江崎グリコが1933年に発売。子供のお菓子と思ってい