今日のグルーヴ〈383〉
いつの時代でも「最近の若者は…」と年配者が苦言を呈する。だいたいソクラテスの時代から、同じ事が言われているのである。 だいたい、苦言の内容は、常識が無いとか、教養が無いとか、礼儀がなっていないとか、といったものである。 だが「最近の若者は…」と言われた若者も、歳を重ねると「最近の若者は…」と言っているのである。 その伝で行くと、若者はソクラテスの時代から現代にかけて、相当レベルダウンしていることになるが、実際のところ、そうでもなさそうである。 私自身は、若い頃から、目上の人より、年下の人にいつも何かを教わってきたような気がする。今もそうである。 若い頃から、目上よりも、どちらかというと後輩にリスペクトする人が多かった。今もそうである。 もっと言えば、一回り以上年下の家内、そして、高校生や小学生の子供から教わることの方が多い。 音楽に関しては、音小から音大まで体験している家内から、相当なところ教わったりヒントを得たり、頭の中の整理を手伝ってもらったりしている。 また、ともするとシニカルやアイロニカルになりがちな時は、子供達の素直な性格に諭されること
今日のグルーヴ〈382〉
完璧な法というものはそもそも存在しないし、歴史を重ねる上で、実情にそぐわないから、その都度変えざるを得ない部分もある。 その伝でいくと、憲法も変えるべき、という考え方もあるのだろうが、しかし、憲法は理想である。理想は継続しなければならない。 現実が合わないからといって憲法を簡単に変えると、どこまでも理想は低くなる。 憲法の前に自然権というものがある。これは人類共通の権利で、例えば人権がある。これは何の議論も必要なく、人類の当然の権利であるはずだ。 憲法を変えるまでもなく、自然権によって、国家は守られるべきである。 であるならば、憲法第九条と自衛隊とは何ら矛盾しない。もっと言えば、憲法第九条は、自然権を明文化したものなのではないだろうか。 であるならば、第九条憲法を変えることは自然権を否定することになりかねない。 憲法論議をするよりも、憲法以外の法の矛盾を質すべきなのではないか。 法は重要で判断の拠り所として大切なものだが、冒頭に書いたように、法だけで全てが判断ができないややこしいことは、あらゆる世界で存在している。 その時に、もう一つの拠り所とい
今日のグルーヴ〈381〉
教育というのは恐ろしい。特に幼少の子供達にとっては、すべてが新しい世界であるから洗脳に近い。 作られたような表情を作り、役作りをされたように言葉をしゃべり、作られた笑顔を誇示し、子供に戦争の絵を描かせ、相手国を罵らせる。子供だけではない。24時間、本音を隠し自分を偽って生きることほどつらいことはないのではないか。自分で自分を騙さないと生きていけないだろう。 私が小学校高学年の頃、やたらに厳しい先生が担任になったが、後年、クラス会が行なわれるまで、その先生は、絶対に極右の人だと思っていた。ところが、クラス会で話される政治談義で、極左だったことが分かった。 小学生に、自らのイデオロギーを強要せず、ひたすら厳しく育てようとされた先生を改めて尊敬したものだ。 戦前の軍国教育の反動から、戦後の教育は対象的なものとなり、自虐史観的な教育が優勢だったが、現代は、少し揺り戻しがあるように思える。 日本にも問題はあるが、すくなくとも、立ち止まって、考える、選ぶ自由はある。 メディアに関して、昨今の緊迫した情勢の中で、ゴシップなど報道している場合なのか、と思ったりも
今日のグルーヴ〈380〉
いつの間にか、街の中やホテルの中を外国人が席巻している状態である。 決して、他国の人を無闇に避けるものではないが、このままでは、日本はEU諸国と同じような状況になってしまうのではないか。 EU諸国を見るに、オリンピックの選手でも移民した運動能力の高い人達が出場し、国をかつて形成してきた民族が出ている場合がかなり少なくなっているように見えてならない。世界中のオケが特徴を失ってきているように、民族も、地球規模で同化していくのだろうか。 日本も同じような状況にある。日本人は、どんどん、他の民族と同化していくのだろうか。 ただ、そもそも日本人の定義もはっきりしない。かつて大和民族とか倭人と言われた人達がいて、そこに隼人や蝦夷といった民族が同化していったと言われているが、長い歴史の中で、他にも中国、朝鮮、東南アジア他の民族も大なり小なり日本列島に移民してきているのだろうから、学術的なことは分からないし、あくまでも想像の域を出ないが、すでに民族としては常に変化し続けているのではないか。 しかし、近年、その変化が違和感を感じるくらい激しすぎるように思えてならな
今日のグルーヴ〈379〉
小樽で、思いがけず日本銀行の旧小樽支店に寄り、歴代の銀行券の展示を見た。 同支店は、現在は札幌支店に吸収されたが、建物自体は金融資料館となり、一般公開されている。そこには、様々な展示があるが、なかでも歴代お札のデザインは懐かしかった。 私が子供の頃は、一万円札も五千円札も千円札も、聖徳太子であった。五百円札は岩倉具視、百円札は、板垣退助であった。 意外と銀行券の肖像は変遷している。実を言うと、千円札が野口英世だとは意識していなかった。まだ、夏目漱石のつもりだった。もっと言えば、個人的には伊藤博文の千円札が、デザインと言い、色合いといい、一番好きである。 かつての聖徳太子の一万円札は、サイズも今より一回り大きく、いかにも一万円札としての威厳と権威と重厚感があった。子供心ながら、憧れであった。将来、初任給で一万円札を拝むことが夢であった。 ところが、私が働き出した瞬間、聖徳太子は、福沢諭吉にとって代わられたのである。サイズが元のままであればまだしも、小さくなってしまったのにはがっかりした。尤も、すでに給与は銀行への振り込みではあったが。 この資料館は
今日のグルーヴ〈378〉
明治から昭和初期にかけて、北海道各地で建築された貴重な建造物を移築復元している「北海道開拓の村」という広大な施設が、札幌市郊外にある。 開拓の村、とあるが、その部分もあるが、明治以降の日本の文化や政治経済、医学、学校、商店、旅館、農家、染め物屋、漁村、養蚕、作家、新聞社‥とありとあらゆる分野の実像の復元を垣間見ることができるのである。 本州では残されていないものが、むしろ北海道にはあるのかもしれない。 ヒットした連ドラ「マッサン」の撮影に使われた建物もある。 民家の作り、風呂や御不浄、土間、廊下などは、私の幼少の時を思い出させてくれた。むしろ、昔の作りの方が、ある意味贅沢であったかもしれない。 私の田舎の富山の家は民宿になってもおかしくないくらいの部屋数があり、親戚一族が集まっても大丈夫なくらい広い部屋もいくつかあった。しかし、木造建築の宿命であるが、いつかは朽ち絶えるのである。 その開拓村の中に、活版印刷の設備や、初期のオフセット印刷機、写真植字機があったのには驚いた。 私が雑誌に関わっていた初期の頃、まだ私がいた出版者は、活版であった。すでに
今日のグルーヴ〈377〉
国民が一体となって国を礼賛する姿には恐怖を覚える。 人間はどこまで自分の本音に見て見ぬふりをすることができるのだろうか。 あるいは、どこまで本気で思い込もうとすることができるのだろうか。 しかし、これは洗脳ではない。思い込もうとするのは洗脳ではない。自分に嘘をつくのは洗脳ではない。洗脳というのは、洗脳されていることに気づかないから洗脳なのである。 洗脳というのは、あらゆる場面で存在する。私など、すぐ洗脳される。洗脳がいけないとは思わない。洗脳がなければ、人間は、なにも変わらないのではないか。 人間は、洗脳の積み重ねによって、あるいは上書きによって、成長しているのかもしれない。 学習。これは洗脳そのものである。 問題は、自分による自分のための洗脳である。これは、洞察、という人間独自の行為を放棄していることになる。 人間が動物と違うのは、そして霊長類の最高の存在と言われる所以は、この洞察という行為一点に尽きるのではないか。 洞察という行為のおかげで人間は、アイデンティティーを保つことができるに違いない。洞察を放棄した時点で、アイデンティティーの放棄と
今日のグルーヴ〈376〉
史上最年少で中学生棋士になった将棋の藤井聡太四段が、永世名人の森内俊之九段を破った。 藤井四段の登場は、連勝記録という大きな話題だけでなく、強い若手がたくさん存在していることを図らずも知らされるきっかけになった。 伝統的な定跡よりも、AIを活用している若手の新たな手が明らかに優勢のように見える。 かつて、カザルスがチェロ奏法に革命をもたらしたように、トルテの登場が弓に革命をもたらしたように、天才の登場が時代を変える、その一つの姿を同時代に目の当たりにしているという幸運を喜びたい。 風雲急を告げる時代、疾風怒濤の時代を迎えていることを確信するものである。
今日のグルーヴ〈375〉
2020年から、プログラミング教育が必修化される動きがあるが、また英語教育のような失敗を繰り返さないのか懸念される。 これからの国際化の時代、英語は必須である、と言われたものである。その通りである。しかし、理想を華々しく掲げても、成功するとは限らない。実体がなければ絵に描いた餅である。 英語教育、とりわけ会話教育が失敗したのは、そもそも教える先生の殆どの人が会話ができなかったし、会話の授業をしようとしなかったからである。 プログラミング教育は、プログラム言語を書くスキルを育てるのが目的ではなく、「プログラミング的思考」を育てるのが目的であるという。 プログラミング的思考と言うと、何か聞こえはいいが、ではプログラミング思考とは何か、と聞かれたときに答えられる教師がどのくらいるのだろうか。 文部科学省のホームページに掲げられている有識者会議による「小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について」を読んでも、よく分からない。 プログラミング的思考は、これからの時代、IT化の時代、第4次産業革命を迎えるに当たって、とても大切なものであるから重要で必
今日のグルーヴ〈374〉
一度、これだ、と掴み取った奏法も、油断をすると、すぐに失う。 野球でも、不動のバッティング・フォームもを掴んだと思うような選手が、その後、気がつかないうちにフォームが崩れたり、あるいは調子を崩してフォームまで崩れたりする。 体型も骨格も筋肉も体調もひとりひとり異なるから、奏法も異なる、一概には言えない、とされているが、果たしてそうなのだろうか。見た目は異なっていても、奏法の基本は共通しているはずである。 美しい音、美しいアタック、音程の確かさ、自由自在なコントロール。それらをもたらすのは、楽器にとって喜ばしい奏法である。 ホームランを打った時の打者のフォームは、誰もが共通して美しい。 年齢による衰え、というものはあるだろうが、楽器の場合、野球等のスポーツよりも、楽器寿命は総じて長い。 アメリカの人気トランペット奏者、ハリー・ジェームスは、ベニー・グッドマン楽団の花形プレイヤー、自身がリーダーの楽団でのソロ等、活躍しまくったが、彼は亡くなる直前まで、演奏している。 彼の録音の最後は、歌手の真梨邑 ケイさんのアルバムTHE MAN I LOVEでの同