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アインザッツとハーモニー至上主義だった。

これはたぶんに学生時代、吹奏楽をやっていた影響であると思う。

 

アインザッツとハーモニー。縦の線と横の線を合わせる。

これが強迫観念のように深層心理にあった。

そしてメトロノームによる練習。決して走ったり、すべったりしてはいけないという強迫観念が深層心理にあったに違いないと思う。

 

しかし、今思う。すべてが合いすぎると気持ち悪い、と。 言葉を換えれば、指揮棒の打点に完璧に合わせる演奏は、私にとっては気持ち悪い、ということだ。 これは、どういう心境の変化なのだろうか。

 

20年以上も前に聴いたある著名な楽団は、一糸乱れぬ完璧な演奏に感動したものだ。これはこれで美しい。だが20年後の同楽団は、全く様相が変わっていた。しかし素晴らしかったし、美しかった。物理的に言えば合っていないのかもしれないが、それがどうしたというのだ、という印象である。

 

ずっと純正律至上主義だった。勿論、今も純正律の響きは好きである。 特に私自身が管楽器をやっていたから余計そうだったのかもしれない。 ヴァイオリニストで作曲家の故・玉木宏樹先生と出会ってからは、その思いが蘇り、意を強くしたように思う。

 

勿論、純正律は素晴らしい。しかし、実は今、純正律は諸刃の剣ではないか、という気がしている。 同じ音でも、和音の種類によって音程は変わるし、ましてやメロディを持ったならば、そこの音程をどう考えるかが難しい問題となってくる。

 

ポリフォニーとホモフォニーとの両立をどのように考えるか、ということになってくる。 それによって、音程が良く聞こえたり良くなく聞こえたりするからここは知らんぷりをすることができないところだと私は思う。

 

つまり、純正律は、ハーモニーでは最高に心地良い音律ではあるが、そもそもその心地良いハーモニーの必要性は時と場合によるのではないか、と思い始めている。あまりに心地良いハーモニーが続き過ぎると、心地良くない、音楽的でない、とすら思うようになった。

 

おそらく、弦楽四重奏は、その微調整をしだすときりのない世界なのかもしれないが、微調整のし甲斐のある形態なのだろう。 しかし、これらの作業というのは、とても面倒である。

 

だから、平均律という便利なものが生み出されたのであろう。 ソリストはよくソリスト音程と言われる音程で演奏すると言われている。つまり、第三音や導音を高めの音程で演奏するということだ(ピタゴラス音律)。純正律とは全く別の世界である。自身は平均律で演奏していると言っていたらしいハイフェッツも、無意識のうちにも微調整をしているように思えてならない。

 

故・玉木宏樹氏は、最低でも平均律とピタゴラス音律と純正律、の三つの音律を使い分けることを提唱されていたが、私は、その三つプラス、“それらにとらわれない音律”を加えて、四つを使い分け、しかも最終的には、無意識のうちにそれらを使い分けていた、というのが一つの理想であるような気がする。

 

結果として、何も考えないで演奏した場合と、一見、一聴、なんら変わりはないのかもしれない。

 

だが、そこに至るプロセスというものを味わったことが、演奏そのものを変えている、と思いたい。 なぜなら、もう一人の自分が、そのプロセスを知っていて覚えているはずだからである。

第20回 もうひとりの自分に任せる(その3)

 

今週の青木節 

アッコルド編集長 青木 日出男​​

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