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もう一人の自分に任せる
というテーマでずっと書いてきた。
 
では、もう一人の自分というのは、
誰なのか。
 
表層意識でもなく、潜在意識でもないと
私は思う。
 
私の結論を先に書く。
 
客観的に自分の心を見る
第三者のような自分、
自分の心をうまくコントロールする
第三者のような自分、
それが、もう一人の自分なのではないか。
 
本能や理性や感情に振り回されずに
自分の心を人ごとのように観察できる自分が
もう一人の自分なのではないか。
 
人間、誰しも良心の呵責、ということがある。
この良心こそが、もう一人の自分なのではないか。
 
もう一人の自分に気づき
ふだんの自分の心・意識を
コントロールした人が、
いわゆる天才なのではないだろうか。
 
例えば、モーツァルト。
彼は、寝床に入ったときに
音楽が沸いてくるのが楽しみだった
という話を聞いたことがある。
 
それこそ天才たる現象なのかもしれないが、
誰にでも、モーツァルトほどではないにしても、
湯水のごとく、アイディアが沸いたり、
イメージが沸いたり、あるいは、
文章がかけたり、という瞬間はある。
 
その量と質に関して、
モーツァルトの場合は、
特別、量も質も
人並み外れたものだったのではないか、
と想像してみた。
 
同じ人間なのに、何故、モーツァルトと
差があるのだろうか。
 
モーツァルトは、神を代弁している、
ということを言う人もいる。
 
ならば、神を代弁する人間と
そうでない人間と、何故分かれるのか。
 
実は、人間、誰にも、
モーツァルトのようになれる
素質は生まれたときは
もっていたのではないか、
と思いたい。
 
例えば、
何かがイメージできたとき、
脳内のシナプスが、
どんどん結びついていくかのように
いろいろなアイディアが浮かび、
また、文章も音楽も創作も、仕事も、家事も
泉が湧くごとく捗ることは
だれにでもあるはずだ。
 
だが、モーツァルトとの違いは、
モーツァルトは、寝床での自分、つまり
もう一人の自分に任せることができたが、
もう一人の自分に任せきることができない人も
いるわけで、そこが、違いなのではないか、
と私は考えてみた。
 
ただし、そもそも
モーツァルトのような天才には
なりたくない、という人もいる。
 
なぜなら、そこには探求がないからだ、
という理由を言う人もいる。
続く

第23回 もうひとりの自分に任せる(その6)

 

今週の青木節 

アッコルド編集長 青木 日出男​​

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