最近、往年の名演奏家たちの映像を、
ゆっくりじっくり、「見る」機会があった。
以前の鑑賞時に受けたものとは違う深い感動が、
心の奥底に種を残し、それ以来、時間があれば映像を漁り、
紅茶とクッキー片手に見入っている。
 
かつては、僅かな雑音まみれの音源を、「聴く」ことしかできなかった。
その名を文献でしか目にすることができなかった演奏家たちもいる。
『偉大』という冠がぴたり嵌り輝く、彼らの“神”的雄姿を、
その気になれば、簡単に「見る」ことができるようになったなんて。
いやはや、十年二十年の歳月がこれほどの恩恵を連れてこようとは…。
 
自分の目で見れば、そこに映っているのは、
間違いなく、一人のヴァイオリニストで、一人の人間。
少しだけホッとしもするが、すぐ諦念に満たされる。
 
ヴィルトゥオーゾたちがヴァイオリンを奏でる様は、
魔法杖を自在に操る老練な魔法使いのそれに似て、
何の労苦も感じさせず、焦燥も、必死さも、そして驕りもない。
呼吸をするように、ヴァイオリンを奏する。
隠されているのかもしれない努力も、我々の眼には見えない。
 
モノクロームの映像の中で、色鮮やかに煌めくオーラ。
その存在感に圧倒されること、数十分。
ようやく衝撃をやり過ごし、勉強モードに入れば、
また、別なショックを受けることになる。
 
オクターヴなんて楽勝の大きな左手。
縦横無尽に動き回るフランクフルトのような指。
小細工など必要ないと言わんばかりに泰然とした右手の構え。
どんな激しい動きにもびくともしない体幹。
 
涼やかに、麗らかに、軽やかに、厳かに、密やかに、
ヴィルトゥオーゾ達は、今も悠然と時間を支配する。
 
 
ヴァイオリン弾きには、『技術』が必要だ。
その『技術』を生み支えるのが、運動能力であり、
その差が演奏を左右することを誰もが知っている。だから、
その根幹をなす“姿勢”と“楽器の構え方”に関する質問は尽きない。
 
何も悩まず、美しく理に適った演奏姿勢を手に入れている人もいる。
いつまで経っても姿勢が安定せず、苦悩する人もいる。
本人は気付いていないが、いずれ支障が出るであろう姿勢の人もいる。
特に問題らしい問題もないのに、なぜか日々不安に襲われる人もいる。
ある日突然問題が発生して、当惑する人もいる。
 
子供or大人、初心者or経験者、関係なく、
演奏姿勢を原因とする問題は、時所構わず発症する。
弾けなくなるほどの状態になることもある。自覚症状がない場合もある。
原因がそこにあると気付かない場合も少なくない。
 
“演奏姿勢”というものを、根本的に勘違いしている人もいる。
例えば。だらりと椅子に座り、「脱力」だという。
例えば。がちがちに身体を固めて立ち、「安定」だという。
 
一部のプロのプレーヤーの、味のある一癖も二癖もある演奏姿勢は、
自分の間違った姿勢を「個性だ」と主張する人々の、
拠り所になってしまっていたりするから、少し悲しい。
 
『見えるもの』は、その奏者にとっての“結果”に過ぎない。
どういう理由で、どういう過程で、そこに至ったのか。
それを知らずして、結果だけ真似しても、よい結果は得られない。
 
一人ずつ、身体も、その能力も違うことを、つい忘れがちだ。
「見た目から入る」ことは、効果的な練習法の一つではあるが、
単なる外観だけを模倣しても同じ音は出ないし、同じ演奏はできない。
 
誰もが納得する、誰より自身が納得する、そんな、
最高のパフォーマンスを目指しての“演奏姿勢”であって、
それ以上でもそれ以下でも、それ以外でもない。
 
 
ビシッと立ち、両腕以外は微動だにしないヴァイオリニスト。
そんな『絵』を、確かに今、自分の眼で画面の中に見ている。
そうあるべしと書いてある、古いタイプの文献もある。
 
でも、「身体を動かすな」と書いてある訳ではない。
「こう立って」「こう構えて」「弓はこう持ち」「左手はこうする」、
そういった文章と、参考図があるだけだ。
 
一体、何が、我々を間違った方に導いてしまうのだろう?
 
“基本姿勢”は決して『型』ではない。
それは、あらゆる動作の土台=身体に負担なく、疲れにくく、
いつでも、目的の動作に移ることができる状態を言う。
そう、「ニュートラル」な状態を示しているのに過ぎない。
 
終止点ではなく、出発点。
それが分かっていれば、例えば、
奇妙な“肩当て論争”に巻き込まれることもない。
 
「肩当ては不要」と唱える人は、
肩当てが楽器の響きを殺し、音色を変えることもあると指摘し、
楽器を必要以上に固定してしまう可能性もあって、
演奏の自由度を確保するためにもするべきではない、そう言う。
 
「肩当ては必要」と唱える人は、
肩当てをしない場合も、結局、身体が裏板を押さえて振動を殺していると、
楽器が安定せず、そのことで演奏に支障を来すくらいなら、
多少の“音”的問題があっても、肩当てはした方がいいと言う。
 
真反対の意見のように思えるが、そうでもない。
どちらもが、楽器のパフォーマンスを妨げず、
奏者がその力を発揮できる状態を作れと言っている。
 
その時々で、その人なりの優先順位がある。
「今の自分」に、「今の自分の身体」に、自身が問うしかない。
先達の言葉は、『アドバイス』であって、『命令』ではない。
強制されるものでも、強制するものでもない。
 
分かってはいるが、聞けば迷う。
「自分」は弱い…。
何を信じるか、それこそが問題だ。
 
 
解説の付いた教本類を集めてみれば、
“演奏姿勢”に関する記述は、思った以上に種類がある。
本来、こういった類のものは、
『一般的』であり、『普遍的』なものであるはずだ。
と、数多がそう思い、信じて、参考にする。
 
ところが、実際の教本の大多数には、
著者の持つ『個性』や『特殊性』が組み込まれている。
 
それは、ヴァイオリンは“口伝”で学ぶものという、
ヴァイオリン界に在する者たちの信念がそうさせているのであり、
読み間違えたときに、解釈し間違えたときに、
それを指摘できる指導者の存在が、前提に置かれているのだ。
 
例えば、大手音楽教室の教本は、
その教室のレッスンシステム、その一教材であって、
そのシステムでレッスンを行なうための、「補助」的教材でしかない。
 
これに限らず、市販されている教本は、
残念ながら、『独学者』のことをあまり想定していない。
よって、その多くは、正直、言葉足らずである。
 
悩める独学者は、なんとかアドバイザーを見つけてほしい。
 
指導書には、時を経て、『歴史書』となっているものもある。
その時代その時代の演奏法というものも、かつては存在した。
それらはもはや文献であり、活かすものであって、丸呑みするものではない。
 
どうしても、右肘が落ちてしまう子に言う。
「カマキリみたいで、カッコ悪いでしょ」
「え~ぇ カマキリ カッコいいし!」
「………」
いや、納得できないことは、口にすべきだ。
 
師を信じよう。
答えは、必ず返ってくる。
 
 
あれほど真剣に、丹念に築き上げた“姿勢”が、
たった一本の譜面台で、簡単に崩れてしまうことがある。
 
オーケストラで演奏したことがある人は、
それを実際に、体感したことがあるかもしれない。
(演奏空間の広い弦楽器の譜面台を「二人で一つ」と決めたのは誰だ!)
(でも、『プルト』という発想、一体感を生む。それは素敵だ…。)
 
姿勢を崩さないように気を付ければ、それはそれで、
譜面の見難さ(向こう側のページはほとんど見えない…)に、
パフォーマンスの質が下がってしまうこともある。
 
それやこれや考えていくと、練習するときの譜面台、
その『距離』『高さ』『位置』『角度』が重要であることに気付く。
 
譜面台が近ければ、視野は狭くなる。
譜面台が低ければ、楽器が下がる。
譜面台をネック方向に置けば、首が左に曲がる。
譜面台の角度が合わず覗き込めば、姿勢が崩れる。
 
最初は仕方がない。「目からインプット」、第一段階だ。
でも、楽譜がほとんどいらない状態になってもまだ、
眼が譜面を求める。眼が譜面を追う。眼が落ちると動揺する。
 
楽譜に囚われなければいいのだ。
でも、なぜか、楽譜から目が離せない。
嫌になる。
 
室内楽では、譜面台が置かれ、奏者は楽譜を見ることができる。
プロの演奏家は、譜面をどう見ているだろう?
思わず、もう一度、再生ボタンを押す。
 
 
映像の中には、
遠くを見て、祈るように弾く「彼」がいる。
目を瞑り、うっとりと自分の世界に浸る「彼」もいる。
念で操っているのかと思う程、左手を見つめる「彼」もいる。
躍動する弓を、我が子のように愛おしげに見る「彼」もいる。
ハートを射止めんとばかりに、客席に視線を送る「彼」もいる。
仲間とアイコンタクトする「彼」もいる。
楽譜を見ている「彼」もいる。
 
視線の行く先は様々だが、彼らに共通しているのは、
“視覚”に縛られていないということ。
 
視覚は危険だ。視覚は強敵だ。
 
我々ヴァイオリン弾きは、典型的な“聴覚型”であるはずだが、
なぜだろう? 視覚情報に負けることが少なくない。
(実は、“聴覚型”ではない? ううむ。)
 
舞台も客席も明るい、そんな場所でのコンサートは嫌だ。
背後が雑然としていたり、多数の絵が掛かっていたり、
そんな視覚情報の多い会場でのコンサートも、嫌だ。
 
眼の日常は、耳の異世界への誘いを容易に遮断する。
 
ええい、言ってしまえ。
“音楽”に『視覚』は邪魔だ。
でも、ライブやコンサートには、それは必要なのだ。
=パフォーマンス、=エンターテインメント、であれば、
演奏もまた、目で楽しむものであるから…。
 
 
小さなお弟子さんたちは、レッスン中、
まだ、楽譜から目を離せない状態であってさえ、
ときに、譜面越しの景色に視線を取られることがある。
壁に貼ってある写真、棚の上の小物、水槽の熱帯魚…。
「キョロキョロしたらダメだよ」
叱った記憶が。いや、叱られた記憶が。
 
 
そう言えば、
建て替える前の、師のレッスン室、古い家屋の一室で、
それは、まさにイメージ通りの『音楽家の部屋』だった。
壁面を埋める楽譜棚、使い込まれた木製の譜面台…。
ほの暗く、雰囲気のある部屋が、とてもとても好きだった。
 
今はビルの高層階になり、明るく開放的で見える景色も最高、
ここでのレッスンも気持ちよかろうと思う。
でも、あのレッスン室が好きだった。
あの部屋に行きたいという気持ちが、重い足をレッスンに向けていた。
 
目を閉じる。優しい暗さの中での、
穏やかで、厳しくて、優しくて、そんなレッスンが瞼の裏に甦る。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第69回 囚われし眼差し

アッコルドよりお知らせ

 

Webアッコルド1周年を記念して、

1日限り、「リアルな場所」で

アッコルドを展開します。

空を見わたせる会場で

昼から夜への

移り変わりを眺めながら

弦楽器の響きに触れてみませんか?

尾池亜美さん率いる

アミ・クァルテットが出演します。

 

●読者の皆様と、演奏者・執筆者・編集者との交流
●私たちが考える音楽の楽しみ方を一緒に体験

●ヴァイオリニストの尾池亜美さんとアミ・クァルテットの皆さんによる演奏
イザイの無伴奏、デュオ、ドビュッシーの弦楽四重奏曲等が演奏されます。
ヴァイオリニストの長尾春花さんがヴィオラに持ち替えて演奏します!

●アッコルド執筆陣の

ヴァイオリニスト・森元志乃さんと

尾池亜美さんとの対談


●質問コーナー、試奏コーナー、

●ワン・ポイント・アドヴァイス

●尾池亜美さんによる

 ハイフェッツの音階練習のデモンストレーション
 (尾池さんは、ハイフェッツの高弟ピエール・アモイヤルに師事し、ハイフェッツの音階練習を習っています。アッコルドから出版予定)

●美味しい軽食とお酒

 

他にもいろいろなサプライズを用意しています。

 

アッコルド1周年記念イベント

 

7月21日(月・祝)海の日

 

会場 ソラハウス(渋谷)

東京都渋谷区神南1-5-14 三船ビル8F

開演 18:15(開場:17:30)

料金 ¥10,000(軽食付き)

定員 40人

(演奏、コラム執筆者・森元志乃さんとの対談など)

 

公開リハーサル

開場 15:00

料金 ¥2,000

定員 20人

 

曲目

フォーレ/パヴァーヌ

ドビュッシー/弦楽四重奏曲 ほか

 

アミ・クァルテット

1stVn  尾池亜美

2ndVn 森岡 聡

Va    長尾春花

Vc    山本直輝

 

★詳細

http://www.a-cordes-ronde.com/#!special0711/cso7

 

※モバイルからは、メニューの「アッコルド1周年記念イベント」をタップしてください。

 

★チケットはこちらから
http://eventregist.com/e/a-cordes

★メールでのお申し込みもできます。
●お名前
●種類(公開リハーサル・本番)
●枚数
●;連絡先(メールアドレス)(電話)(住所)
を明記の上、
a.cordes.editeur@gmail.com(アッコルド)へ。
メールでお申し込みを戴きましたら、おって決済方法についてご連絡差し上げます。ご連絡をお待ち下さいませ。
※なお、個人情報は、本イベントに関わること以外には使用致しません。

★モバイルからは、メニューの「アッコルド1周年記念イベント」をタップしてください。

 

皆様のお越しをお待ちしています。

 

 

 

尾池亜美さん

対談・クァルテットへの思い〈1〉

 

尾池亜美さん

対談・クァルテットへの思い〈2〉

 

尾池亜美さん

対談・クァルテットへの思い〈3〉

 

 

 

© 2014 by アッコルド出版