筆者が手持ちのヴァインベルク弦楽四重奏曲の総譜を並べ、さあ演奏会に向かおう。名門ハイデルベルク大学の卒業証書を抱えたアヒルはご愛敬。
大学講堂ロビーで初日の開演を待つ聴衆。
ダネルQの第2ヴァイオリンとヴィオラ氏が、主催者とギリギリまで話をしている。これから大きなチクルスが始まる前とは思えないノンビリさ。
ハイデルベルク大学講堂の後ろの方、聴衆の邪魔にならない席に陣取って楽譜を開き、さあ、チクルスの開幕だ。
中央通りの教会がもうひとつの会場。周囲はワールドカップ騒動で騒然としている。
朝から教会の音響に慣れるべく練習に励むダネルQ
礼拝用の空間は、案外と楽譜などを広げるには不向きだ。ともかく、聖書台にプログラムを立てて気持ちを盛り上げよう。
中期の傑作を弾き切って、一仕事終えた感が漂うダネルQ。
再び大学講堂に戻り全曲を終え、聴衆の拍手に包まれる。次にヴァインベルクのチクルスが開催される予定は、当面、ないとのこと。
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この10日ほど、ひとりの音楽家と随分と纏めて付き合っていた。付き合う、とはいえ、生身とではない。没して既に18年が経つ作曲家である。演奏時間にして9時間にもなろうかという17曲の弦楽四重奏曲全てと、巨大管弦楽に1ダースもの独唱者、合唱団と大規模な演出が必要なフルサイズの歌劇《パサジェルカ》の舞台上演に接するという、希有な経験である。
ベートーヴェンならば、10日で全16曲の弦楽四重奏曲と歌劇《フィデリオ》の舞台上演に接することはあり得なくはない。全弦楽四重奏曲に歌劇《ムルマンスクのマクベス夫人》を加えた2週間のショスタコーヴィチ・フェスティバルもあるだろう。だが、今回経験したサイクルの相手は、ミエチスラフ・ヴァインベルクなる作曲家である。殆どの「アッコルド」読者には、名前すら聞いたことない存在だろう。
恥じることはない、2010年夏にブレゲンツ音楽祭でこの作曲家の作品が集中的に取り上げられるまでは、ソヴィエト音楽研究者か熱心なショスタコーヴィチ愛好家だけが知る名前だったのだから。
その認識も、「ショスタコーヴィチが弦楽四重奏を書き始めた頃からの近しい友人で、ショスタコーヴィチがユダヤ音楽に関心を抱く原因となった作曲家」といったところか。あとは、ボロディンQの膨大なディスコグラフィーにヴァインベルクなるピアニストと共演したピアノ五重奏曲があり、ショスタコーヴィチ晩年の作風に似た弦楽四重奏の録音もいくつか遺っている事実を記憶する室内楽マニアがいるくらいだったろう。
ここで音楽家ヴァインベルクの数奇な人生について記すべきだろうが、ある程度以上の詳細な話をしようとすれば、それだけで数回連載の長大な記述となる。ともかく、以下に必要最低限の伝記的事実を列挙する。
・1919年、ワルシャワのユダヤ人音楽家の家に生まれる。音楽教育を受け、ピアニスト及び作曲家としての活動を始める。
・1939年、親の家にいるときにドイツのワルシャワ侵攻を知り、妹と東に向け街を脱出するも、靴が合わず履き替えに戻った妹とはぐれ単身ソ連国境に向かう(後に、妹を含め家族全員がナチスの強制収容所で殺されたと判明)。国境でソヴィエト官吏から違う名前とソ連国籍を与えられ、白ロシアのミンスクに逃れる。ミンスクにドイツ軍が迫るや、ウズベキスタンのタシケントに脱出。その地でユダヤ系劇団主導者の娘と結婚。義父の紹介で、同地に逃れていたショスタコーヴィチの知遇を得る。
・ドイツ軍の侵攻が一段落するや、ショスタコーヴィチの助力でモスクワに移り作曲活動を本格化、6番までの初期弦楽四重奏が書かれる。1953年、ユダヤ人国家建設の策謀に加担した嫌疑で義父が暗殺され、公安監察下に。弦楽四重奏第6番は演奏禁止となる。翌月に収容所送りとなる手続きの最中にスターリンが没、自由の身となる。
・以降、ショスタコーヴィチとは発表前の楽譜を見せ合う程の親密な関係となる。ポーランドの亡命ユダヤ人であるため公職を得られず、演劇や映画音楽などで生計を立てつつ、6曲のオペラ、23曲の交響曲、ヴァイオリンやチェロのソナタなど、膨大な数の作品を遺す。ソ連崩壊後の1996年に没。
ご覧のように、ソ連崩壊前から作曲家として西側世界に知られるようになったシュニトケにも似た経歴だ。なお、かつては一部の日本語表記に合わせ「ワインベルク」と記していたが、現在ではwを「ヴ」と表記する原則に従い「ヴァインベルク」と表記している(後述の歌劇のテレビ放送で、NHKはどのような判断からか「ヴァーインベルク」と表記していた)。悪しからず。
※
ソ連音楽にもショスタコーヴィチにも人並み以上の関心がない筆者がヴァインベルクを知ったのは、ひとえにダネル弦楽四重奏団(以下Q)との関わり故である。
最後からひとつ前の1995年のエヴィアン弦楽四重奏コンクールでヘンシェルQと第2位を分けたダネルQは、ヘンシェルQより少し経歴が長いベルギーの団体である。ソ連崩壊前からモスクワで不定期で開催されていたショスタコーヴィチ弦楽四重奏コンクールで入賞した縁でボロディンQからショスタコーヴィチを習うことになり、ショスタコーヴィチ未亡人とも知り合う。そんな中でヴァインベルクの音楽に出会い、様々な困難を乗り越え、2009年11月にマンチェスターで史上初の全曲演奏を敢行、全曲の録音も終えた。
2009年11月号『ストリング』に掲載した、恐らくは過去に最も大きい日本語によるヴァインベルクに関する記事とそれ以降の展開に関しては、当連載第17回に記した通り。去る7月4日から6日までハイデルベルクで開催された史上2度目のヴァインベルク弦楽四重奏全曲演奏会を訪れる経緯もまた、旧稿に記した通りである。
ダネルQに拠れば、13番から15番までの3曲は旧ソ連楽譜出版でお馴染みのシコルスキー社が権利を有しており、現在は絶版中。残りの14曲はパール・ミュージックから出版が進められており、最終的にはヴァイオリン・ソナタやチェロ・ソナタ同様に全曲が揃う予定だが、まだ予定は未定とのこと。
つまり、現時点でヴァインベルク弦楽四重奏全曲演奏が可能なのは、作曲者未亡人から直接スコアに接することを許されているダネルQのみである。ハイデルベルクのサイクルにあたり筆者が手元に揃えることが出来た楽譜も、4、5、7、8、10、11、16番だけだった。残念ながら一昨年にパシフィカQの録音も出て来た傑作第6番が欠けているのは、たまたま手に入らなかっただけのようである。
ハイデルベルクでのダネルQの演奏については、あれこれ言いようもない。なにせボロディンQの録音で接し得る8番を除けば、彼らの再現が現時点でのヴァインベルクの旧約聖書なのだから。
ただ、かつて第1ヴァイオリンのマーク・ダネルが筆者とのインタビューで語った「ヴァインベルクの楽譜は、テンポもダイナミックスも特殊奏法も指定が有る限りバカ正直に演奏しないと全く意味を成さない」との言葉は、譜面のある作品に限れば、可能な限り忠実に守られていたようである。無論、外の騒音を防ぐために窓を閉め切った強烈な暑さの中で弾かれた16番など、流石に完奏直前の疲労も重なったか、細部に些かの乱れも散見されたが、こればかりはライヴとして仕方あるまい。
全曲を聴いた責任(?)もあろう、この作品に興味を持った方のために全曲を俯瞰しておく。1930年代後半から1980年代後半までの長い期間に書かれた弦楽四重奏群は、はっきりと時代による性格の分類が可能である。
ワルシャワ時代の第1番からソ連亡命直後の第3番までは、敢えて言えば習作期。とはいえ、第1番の第2楽章で第1ヴァイオリンが延々と休んだり、第3楽章でのヴィオラのピチカート多用など、後に明快になるこの作家の弦楽四重奏語法は姿を見せている。
第2番でも、第3楽章での弦楽器特殊奏法へのこだわり、ちょっと聴く限りショスタコーヴィチとの類似性ばかりに耳が行ってしまう終楽章の強烈なプレストなど、慣れてくると如何にもヴァインベルクの音楽になってきている。なお、これらの2曲は最晩年に改定されているとのことで、どこまでがオリジナルなのかは判断が付かない。この作曲家への関心が高まり、詳細な研究が出て来るのを待つしかない。
第3番は最初にヴァインベルクの個性がはっきり確立した作品で、際立って息が長い旋律をひとつの楽器が延々と保持し、ショスタコと似て異なるアレグロが熱狂をもたらし、フワフワした響きの弱音で音楽が推移したり。縦の響きよりも横の線を4つ纏めて重ねたがるのも大きな特徴であろう。
大戦末期に書かれた第4番と第5番は対照的なセット。第4番は、冒頭楽章が提示部の繰り返しを有する古典的な4楽章ソナタ構成。それに対し第5番は、まるで個々の声部はバラバラにしても4つの無伴奏独奏ソナタになりそうなほど独立性が高く、構成も緩急緩急の教会ソナタのようである。
とはいえ、第4番の様式的な古典性はベートーヴェン的な「闘争と勝利」のパターンを踏むことはなく、フィナーレはなんとも不思議な不安定さの中に取り残される。また、第2楽章での指定通りに演奏するだけでも至難な特殊な音響指定の連続は、全17曲の中でも最も無謀かも。ヴァインベルクの楽曲に距離感を与えるひとつの大きな理由となる終楽章での未解決な印象も、既に明らかだ。ショスタコーヴィチの第4交響曲のような作者が思いきりやりたいことをやってしまった無茶さ故に、第4番は筆者は個人的に最も気に入った作品のひとつであった。
それにしてもこの作曲家の音楽を聴いていると、盟友のショスタコーヴィチがいかに聴衆を意識しつつ作品を書いていたか、あらためて思い知らされる。
第6番はヴァインベルクの弦楽四重奏という楽曲に対する腹が決まった初期の総決算的な音楽。特殊奏法の仕様も控えめで、この作曲家の語法にそれほど慣れていない団体でも最も近付きやすいのではなかろうか(楽譜を眺めていないので、あくまでも再現を聴いた印象であるが)。パシフィカQがショスタコーヴィチ全集のフィルアップに録音しているのも、理解出来る。
今回のサイクル、ここまでで最初の2つの演奏会が終了。続く7番からは1950年代後半以降、ヴァインベルクが作曲家としてある程度安定した創作が可能となり、ショスタコーヴィチと競い合って弦楽四重奏を書いていた頃の「中期傑作群」である。ボロディンQも演奏していた作品群で、今後にヴァインベルクが本格的に弦楽四重奏団のレパートリーに入ってくるなら、最初に取り上げられる楽譜達であろう。演奏会としても、7番から10番までが一気に演奏されたこの晩は、ひとつのハイライトであった。蛇足ながら、この演奏会が開演する直前にサッカー・ワールドカップ準決勝が行われ、ダネルQの応援空しくベルギーが惜敗。ちょっと残念そうな演奏者達であった。
第7番は響きへの関心や各楽器の独立した動きに整理が付き始め、終楽章も万人に納得のいく終わり方をしてくれる。第8番はショスタコーヴィチの同じ番号の傑作を連想させる、コンパクトな単一楽章の音楽。ヴァインベルクのクァルテット入門には最適かも。第9番も4番以来の古典性への関心を顕わにした音楽で、この多作家が書きながら成長していくシューベルトのようなタイプの創作家だったことを明らかにしてくれる。第10番も第5番のリメイクのような教会ソナタだ。
最終日となる日曜日は気温も上がり、弾く側の疲れもピークに達する中で行われる。細かい動きの弱音に終始する第11番は、決して分離の良くない教会という空間での再現はちょっと厳しかったかも。残響の少ないクリアーな場所でもう一度聴いてみたい音楽だった。続く12番は、この作曲家としては珍しい縦の和声への関心が表に出た音楽。この辺り、再びある種の判り憎さが戻って来ている。まるで《ラズモフスキー》を終えた後のベートーヴェンの創作のようだ。重厚なユニゾンの響きが印象的な単一楽章の第13番など、さしずめヴァインベルクの《セリオーソ》だろうか。
5回目となる最後の演奏会は、ショスタコーヴィチ没後の作品ばかり。正にヴァインベルク後期の響きで埋められる。弱音だらけの第14番は、ハイデルベルク大学講堂前広場で開催中のアフリカ・バザーで大音響で鳴らされるドラムの響きに掻き消されそう。第15番は短い性格小品を多数並べたバガテル集のような音楽で、形式は全17曲でも最も特徴的で、関心を持つ団体も多いかも。近い将来に人気曲(聴く方というよりも弾く方にとって、だろうが)になる可能性がある。第16番は第6番の再現のような端正で完成度の高い傑作。そして最後の第17番は、アレグロの明快なソナタ形式で始まる4つの楽章が並ぶ。重厚な弦楽器のユニゾンの歌の緩徐楽章、毎度ながら劇的なドラマにはならないものの不思議なまとまりを見せる終楽章と、まるでベートーヴェンの作品135をヴァインベルクなりに回想し、クァルテット作家としての筆を置いたかのようである。
以上、ごく当たり前の弦楽四重奏知識しか持たぬ耳が経験したヴァインベルク全曲サイクルの感想である。このメモ書きが聴衆の鑑賞の役に立つ日がやってくることを祈りつつ、初めて接した者の印象を列挙した次第。ダラダラと長い記述になってしまったので、オペラに関しては次回とさせていただこう。
ハイデルベルク中央駅前のInformationに掲げられたダネルQヴァインベルク全曲演奏会のポスター。熱心な室内楽協会が地元にあってこそ実現した企画である。
第54回
ヴァインベルクの復興その1:弦楽四重奏曲
電網庵からの眺望
音楽ジャーナリスト渡辺 和
アッコルドよりお知らせ
Webアッコルド1周年を記念して、
1日限り、「リアルな場所」で
アッコルドを展開します。
空を見わたせる会場で
昼から夜への
移り変わりを眺めながら
弦楽器の響きに触れてみませんか?
尾池亜美さん率いる
アミ・クァルテットが出演します。
●読者の皆様と、演奏者・執筆者・編集者との交流
●私たちが考える音楽の楽しみ方を一緒に体験
●ヴァイオリニストの尾池亜美さんとアミ・クァルテットの皆さんによる演奏
イザイの無伴奏、デュオ、ドビュッシーの弦楽四重奏曲等が演奏されます。
(ヴァイオリニストの長尾春花さんがヴィオラに持ち替えて演奏します!)
●アッコルド執筆陣の
ヴァイオリニスト・森元志乃さんと
尾池亜美さんとの対談
●質問コーナー、試奏コーナー、
●ワン・ポイント・アドヴァイス
●尾池亜美さんによる
ハイフェッツの音階練習のデモンストレーション
(尾池さんは、ハイフェッツの高弟ピエール・アモイヤルに師事し、ハイフェッツの音階練習を習っています。アッコルドから出版予定)
●美味しい軽食とお酒
他にもいろいろなサプライズを用意しています。
『アッコルド1周年記念イベント』
7月21日(月・祝)海の日
会場 ソラハウス(渋谷)
東京都渋谷区神南1-5-14 三船ビル8F
開演 18:15(開場:17:30)
料金 ¥10,000(軽食付き)
定員 40人
(演奏、コラム執筆者・森元志乃さんとの対談など)
公開リハーサル
開場 15:00
料金 ¥2,000
定員 20人
曲目
フォーレ/パヴァーヌ
ドビュッシー/弦楽四重奏曲 ほか
アミ・クァルテット
1stVn 尾池亜美
2ndVn 森岡 聡
Va 長尾春花
Vc 山本直輝
★詳細
http://www.a-cordes-ronde.com/#!special0711/cso7
※モバイルからは、メニューの「アッコルド1周年記念イベント」をタップしてください。
★チケットはこちらから
http://eventregist.com/e/a-cordes
★メールでのお申し込みもできます。
●お名前
●種類(公開リハーサル・本番)
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●;連絡先(メールアドレス)(電話)(住所)
を明記の上、
a.cordes.editeur@gmail.com(アッコルド)へ。
メールでお申し込みを戴きましたら、おって決済方法についてご連絡差し上げます。ご連絡をお待ち下さいませ。
※なお、個人情報は、本イベントに関わること以外には使用致しません。
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皆様のお越しをお待ちしています。