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よく、もうひとりの自分がいると言われる。
二重人格という意味ではない。
生活や世事に追われて、ああ忙しいと言っている、
つまりふだんの自分がまずいる。
それ以外に、そういったことに一切煩わされない自分がいる、というのである。簡単に言うと、自分を観察している自分がいる、ということである。
ある有名な演奏家が、親を亡くしたとき、通夜や告別式に前後して本番が控えていた。そういうとき、いったいどういう精神状態で乗り越えたのか。
彼は、もうひとりの自分が、ふだんの自分を見ていたというのである。 もう一人の自分に、自分を観察させることによって、つまり客観的に自分を見ることによって、難所を乗り越えたというのである。
もう一人の自分というと難しいが、どうやら、いわゆる良心、真心というものであるらしい。ああ、これは良心が咎めるな、と思ったときの自分が、もう一人の自分なのである。
何か事が起きたときだけでなく、常にこの心で生きることができれば、人間はとても幸福なのではないだろうか。一瞬にして幸来たる、ということだ。
☆
さて、ではここからが本題であるが、演奏しているときに自分というのは、どちらの自分なのだろうか。
緊張したり、上がったりする自分、というのは、あまり良い状態ではなさそうであるから、おそらく世事に煩わされているふだんの自分であろう。
しかし、そういったことに煩わされていない瞬間がある。演奏も実に快調で、自分が演奏していることすら人ごとのように感じられる瞬間がある。滅多にないが。
この文章の展開から言えば、それはもう一人の自分がいる瞬間、ということになる。つまり、もう一人の自分が演奏させている、ということなのだろう。
しかし、事はさほど単純ではないような気がする。(続く)
第18回 もうひとりの自分に任せる(その1)
今週の青木節
アッコルド編集長 青木 日出男
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