今日のグルーヴ〈478〉
高齢化社会では、大きく介護、相続に問題が集約してくるように思える。両方とも自分に起きた問題であるが、ということは世の中の大半の方々は、この問題に多かれ少なかれ遭遇することになるだろう。
介護には家庭環境問題、人間関係、生活の問題が含まれる。
介護の問題であるが、家で介護するのは相当大変である。高齢であっても健康寿命が高ければ問題は減少するが、たいていは、健康寿命と命の寿命とには差がある。その差が大きければ大きいほど大変な時期が長くなるのである。
家での介護の境目の一つは、下(しも)の問題である。万物の霊長とも言われる人間に、生まれたときと死ぬときに何故、下の問題があるのか不思議でならないが、現実はそうである。
大昔、寿命が現代ほどではない頃、下の問題は今ほどではなかったのではないか。下の問題が起きる前に、人間は寿命を迎えていたのではないか、と想像する。
文明が発達すればするほど、医学が発達すればするほど、理性が発達すればするほど、下の問題は取り残されていったのではないか。
若い頃は、下の問題など、想像できないが、高齢化社会では、ほぼ誰もが遭遇する問題である。
さて、では誰もがそれを覚悟することができるのだろうか。
人間としての良心と下の問題というのは両立できるのだろうか。
勿論、誰もが家で介護できるものならしたい、と思うのが基本である。しかし、現実に置かれたときに、必ずそう言えるとは限らない(これが、仕事となれば話は異なってくる)。
人間は、それほど強くない。介護によって共倒れになることもあるのである。志はあっても、それを全うすることができる人ばかりではない。もし自分でできないことであるならば、人に強制してはならない。
紙お襁褓がなかった時代、それはそんな昔ではないが、その時代、今思えば、お母さんたちは本当に大変だった。
そもそも、主婦を全うするには、専業でなければこなすことはできなかったくらい大変な仕事量であった。
私の幼少の頃は、今のような、洗濯機もないから、金だらいに洗濯板を使って固形石けんで洗濯物をしていた。冷蔵庫は氷の塊で冷やしていた。テレビも夕方、大きな家に皆が集まって見ていた。内風呂はないので、風呂は銭湯である。
シャワーなどというしゃれたものはないから、汗を流すのは行水である。エアコンもなく、扇風機があればいいほうである。あるのは団扇である。
家の前の道路も舗装されていないところが多く、土埃が立たないように、柄杓で水をまいていた。
トイレも浄化槽などなく、汲み取り式で、バキュームカーが定期的に各家庭を廻っていた。
いったい何時代の人間なのか、と思うくらいであるが、そんなに昔の話ではないのである。
街全体や家が清潔になるのは有り難いことであるが、そうなればなるほど、下の問題は余計に負担になるのである。
結論から言えば、介護は家族だけでは無理である。
歳をとればとるほど、人間は成長するとは限らない。むしろ、人間力は衰える事の方が多いのではないか。
かつて、とにかく立派だった人も、歳をとり、体力も衰えると、心も衰え、人間的な魅力は残念ながら半減してしまう。下手をしたら老醜をさらす、老害をまき散らす、ということになりかねないのである。私も例外ではないだろう。
歳はとりたくないものである、と言っても、誰もが公平に必ず死ぬのである。これだけはどんな人でも避けて通ることのできない、人間の公平なルールである。
しかし、ここで考えたいのは、我々人間は、老いさらばえても、生きる意味というものがあるはずである、ということである。
宮沢賢治は、それを知るために生まれてきた、と言っているが、それを知っただけでは満足できない。
何かを残すか為す、あるは何かに貢献するとかしなければ、何のためにこの世に来たのか分からない。
しかし、世の中の仕事は、大半が、人間がただ生きるために必要なものや道具や手段を生み出すものである。
勿論、それらは大切な仕事であるし、なくてはならないものであるが、それはそれとして、その他に何かを創造するなり、何かを為すなりしなければ、万物の霊長とも言われる人間としては、人間として生まれた甲斐がないのはないか、と思えてならない。
生きるために仕事をする以外に、それとは別に生活とは関係のない生きがいというものを見つけることが大切なのではないか。
それは、歳に関係なく、自我に目覚めた人に共通のことではある。だが年老いたときにこそ、真の生きがいというものが問われるのではないか。