今日のグルーヴ〈239〉
かつて、紙媒体で音楽雑誌をやってい頃、創業者の理念で、紹介はするけれど、評価はしない、というものがあった。例えば、演奏会の紹介はするけれど、評価や評論はしない、ということである。
何故なら、紙媒体では、良い評価であろうと反対に良くない評価であろうと、聴いていないで読む人には、判断ができないからである。
どんなに評判が良かろうと、自分はそうは思わない、ということもあり得るわけで、特に音楽のような感受性次第のものに関して、人の耳で判断することは、言語道断である。
しかし、聴いていた人でも、周りの声や、評論によって、ああ、そういうものなのかな、と感想まで人に左右されることも多々ある。
こういうのは、もう音楽の世界ではない。俗世間の世界の話である。
かつて、我々の時代は音楽の時間がつまらない、退屈である、という人がほとんどだった。私はクラシックがどういうわけか好きだったから、そうでもなかったが。皆、ロックやプログレッシヴ・ロック等を聴いていた。
今、学校音楽では、何をしているのか。評価のポイントが、いくつかあるようだ。例えば、音楽に親しみ、音楽を進んで表現し、鑑賞しようとする人、音楽を楽しく鑑賞し、そのよさや美しさを味わう人、が評価されるらしい。楽しく鑑賞し? よさや美しさを味わう? 大きなお世話である。
音楽の楽しさを味わう…そのようなことは強制されたくない。音楽に点数を付けるとしたら、そもそも、音楽の授業で生徒を評価すること自体、意味がない。
音楽を学校教育に取り入れることは賛成だが、評価を付ける事自体には無理がある。だからクラシック嫌いが増えてしまうのである。
音楽はひたすら紹介で十分である。
紹介はするけれど、強制はしない。
これで十分である。かつてはレコード・CD鑑賞だったが、これでは足りないだろう。
クラウドで音楽のライブラリーが充実してきているので、こういうもので、どんどんいろいろな音楽を紹介するべきである。
そして、演奏家の生演奏を鑑賞する。いわゆるごくたまに行なわれる音教や、音楽隊の演奏だけでなく、若くて卓越した演奏家はたくさんいるのだから、どんどんミニ・コンサートを増やす。生徒に無理に感想等は求めない。これで十分なのではないか。