top of page
作曲家たちの尊敬を一身に受けたのがヨアヒムだとするならば、
同業のヴァイオリニスト達から多くの支持を得たとされるのは、
“ヴァイオリン界の帝王クライスラー”である。
 
…と、どの書物を開いても、そういう風に書いてある。
こうも書いてある。「彼ほど聴衆から愛された人物はいない」
 
作曲家としての、彼の代表作の一つである《愛の喜び》は、
ヴァイオリンの小品の中では、ずば抜けて知名度が高い。
 
曲と同様、「クライスラー」という名も覚えやすいのか、
ヴァイオリン畑にいない人でも、彼の名を知っていたりする。
 
ポピュラーpopularという言葉を、文字通り、
「一般によく知られていること。人気のあること」とするなら、
彼ほど“ポピュラー”という言葉が似合うヴァイオリニストはいないだろう。
 
ヴァイオリンの『小品集』なるものは、それこそ星の数ほどあるが、
そのほとんどが演奏家をフューチャーしたもの。ある作曲家の、
しかも小品ばかりを採り上げ商品化することすら珍しいのに、
それが売れ筋にあるというのは、多分クライスラーだけだろう。
 
もちろん、我が家のCDコレクションの棚にも、
《クライスラー名曲集》的CDが10枚近く並んでいる。
これでもほんの一部。買い揃えれば、楽に棚が一段埋まるだろう。
クライスラーに特化したものでなくとも、《小品集》とあれば、
何か一曲は入っていたりする、そんなクライスラー作品である。
 
楽譜も同様で名曲集やピースそれやこれや、ひと通り出版されている。
これまた、我が家の楽譜棚の一部はクライスラーが占めている。
「クライスラー、好きなんだねぇ」、いやいや、
ヴァイオリン弾きたる者、クライスラーは持っていなければ。
我が業界において、彼はそういう位置にある。
 
 
何も知らぬ頃、それはアンコールピースの一つという位置付けだった。
耳も大人でなかったのだろう、今一つよさが分からぬまま、
「弾かず嫌い」という訳にもいかず(だって“クライスラー”である)、
揃えた楽譜を、片っ端から練習してみたりもした。
 
でも、分からない。普段、学んでいる楽曲たちと比べて、
まるで雰囲気の違う曲たち。何が違う?…何か違う。全然違う。
聞きやすく、弾きやすく、楽しく、可愛いらしく、そして何より、
ヴァイオリンらしい、まさに小品の理想ともいえる作品たち。なのに。
 
あれ?と思ったのは、彼の自作自演を聴いたときである。
「なんだ、聞いたことなかったの?」…不勉強この上ない。
ああ、この曲はこう弾くんだ。こんなに素敵な曲だったんだ。
素直に感動する。好きになる。やがて、こんな一文に出会う。
「クライスラーは、『軽い』とか『容易だ』とか思っている弾き手にとって、罠に満ちている」…ああ。
遅きに失すると思いつつも、必死で勉強する。
ダメだ。どうも「根っこ」の部分が違うらしい。
 
当時、彼の演奏で特に注目されたのは、奏法書的語彙で言うと、
『経済的なボウイング』と『常時ヴィブラート』である。それは、
「そんなに無理してワンボウで弾かなくてもいいんじゃない?返せば」
「ヴィブラートは音を豊かにするんだから、全部の音に掛けちゃおうか」
こんな感じだろうか?(乱暴な説明で申し訳ない)
 
確かに音源を聴けば、驚くほどヴィブラート掛けっ放しである。
が、不思議なことに、『常時ヴィブラート』が嫌いなはずの耳にも、
それが、まったく不快なものとしては聞こえない。心地よい位だ。
「よくぞ、その短い間に」と感心するほど、豊かなヴィブラートである。
『勝手に掛かっちゃうヴィブラート』『掛ければいいんでしょヴィブラート』とは、全く異なるものだ。(そういう場合の多くは、粗雑な『ちりめんヴィブラート』であったりする)
 
もう一度、あれ?と思ったことがある。
イザイ(1858-1931)の《無伴奏ヴァイオリンソナタ第4番ホ短調》が、
クライスラーに献呈された曲だと、知ったときである。
―無伴奏ヴァイオリンソナタ 作品27(作曲1923年~1924年)=親交のある6人のヴァイオリニスト(シゲティ、ティボー、エネスク、クライスラー、クリックボーム、キロガ)に各曲が献呈された。
曲のイメージが、それまで勝手に自分が思い描いていたクライスラーのイメージと全く違うのである。
クライスラーと親しかったイザイ。なぜ? どうして?
 
 
―フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875-1962)、
オーストリア出身の20世紀前半を代表する世界的ヴァイオリニスト。
ウィーンで生まれ、後にフランスを経てアメリカ国籍となった。ユダヤ系。
 
医者でアマチュア・ヴァイオリニストの父の勧めでヴァイオリンを始める。
7歳で特例としてウィーン高等音楽院に入学、ヘルメスベルガー2世にヴァイオリンを、ブルックナーに作曲理論を学ぶ。10歳にして首席で卒業。
パリ高等音楽院に入学、マサールにヴァイオリンを、ドリーブに作曲を学ぶ。12歳で首席卒業。
アメリカで演奏会を開き、半ズボン姿の「フリッツ・クライスラー先生」と名ピアニスト・ローゼンタールの共演は大成功を収める。
が、ウィーンに帰ると数年間演奏活動を中断。二年間医学を勉強し、20歳になるとオーストリア帝国陸軍に入隊。その後、音楽界に復帰する。
復帰後、ウィーン・フィルの入団試験を受けるが「初見演奏が不得手」という理由でロゼに落とされる。この頃、ブラームスやヨアヒムと知り合う。
転機は1899年ニキシュ指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演したこと。これを機に彼の名は知れ渡る。たまたま来場していたイザイは激賞、クライスラーはその人生に欠かせない知己を得ることとなる。1901年ベルリンでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を弾くことになっていたイザイが朝のリハーサルで倒れた際、クライスラーがリハーサルなしに見事代理を務めたという逸話もある。
1903年頃からレコーディングを始める。
1914年第一次世界大戦勃発。召集を受け出征するが、重傷を負って帰還。療養しながら演奏活動を再開するが、アメリカにおいてオーストリアは敵国だったため、妨害もあり活動は思うようにはいかなかった。
1918年大戦終結後、ヨーロッパ楽壇に復帰。1923年来日。
1924年~1934年ベルリンに拠点を置くが、ナチスが政権を獲得、ドイツへの残留を要請されるが拒否、1938年パリに移住、1939年にはアメリカに移る。
1941年トラックにはね飛ばされ瀕死の重傷を負う。カムバックするものの、万全な状態にはなかなか戻らなかった。
1947年カーネギー・ホールでの演奏を最後に舞台から去るが、放送出演はしばらく続ける。
1962年1月29日、ニューヨークで交通事故に遭い死去。
 
こんな人生を送っての、あの“クライスラー”である。
 
 
「クライスラーはその芸術を通じての自己表現の仕方と生活態度が一致していた稀に見るほど愛すべき人物である」
 
出演料が高額になり、レコードの印税が入るようになると、
彼は収入の大部分を、オーストリアの戦災孤児たちなどに寄付する。
第二次世界大戦の折には英国の赤十字基金に。そして、アメリカでも寄付を。
 
冠を得てなお尊大になることなく、自身をドラマ化することもない、
ユーモアがあり、ウィットに富み、鷹揚で、気取りがなく、
優しく、調和を好み、いつも笑顔、…どれだけいい人なんだろう? 
 
「表現性に富んだ独特なヴィブラートとポルタメント」
「優美で優雅なボウイング」「甘美で豊かな音色」
「ロマンティックなスタイル」「高貴さと親しみやすさを併せ持つ」
 
部分部分で言えば、それを越えるヴァイオリニストはいただろう。
でも彼は、誰もが認めざるを得ない偉大なヴァイオリニストだった。
『普遍』というタイトルで芸術作品を作ればこうなるであろう、というような。
 
手元のある書物にこういう一節がある。
「クライスラーは確かに、精神の深い領域にまで入ってゆくヴァイオリニストではなかった」
この後の論の展開は、彼の存在を肯定するものであるが、この一節は気になる。
 
彼がヴァイオリンを手にしたとき、
その心の向く先は「内」ではなく「外」であったのであろうと想像する。
だから、演奏にも作品にも邪気がないのだ。
 
いつも他人のことを気に掛け、他人の幸せを願っていた彼は、
その手段のひとつとして、ヴァイオリンを演奏していた、
きっと、それ以上でもそれ以下でも、それ以外でもなかったのだ。
ただただ、他人に幸せな気分になってもらいたくて。
 
 
フリッツ・クライスラーの唯一の著書、
それは音楽書でも、自身の伝記でもない。
「一ヴァイオリニストの従軍記」という副題を持つ『塹壕での四週間』という戦争体験記である。
 
1914年、戦地に向かった彼の隊は、やがて敵に急襲される。
彼は脚に深い傷を受け、挙句に野戦病院を転々と移動させられる。
彼のいた隊は、ほぼ全滅。クライスラー戦死の誤報まで流れた。
 
彼の書が紹介されるときは、大抵、この部分が採り上げられる。
「音楽的に訓練された私の耳によって着弾地点を知り、大砲の射程をほとんど正確に決められるということに、私は気付きました」
そうして隊に貢献したと。音楽家らしい逸話だからだろう。
でも、多分、読むべきはここではない。
 
例えば。
「やがて、ある種の獰猛な感覚が体内に湧き上がり、戦闘以外のどんなことにも完全に無関心になります。かりに、塹壕の中でパンを齧っているときに隣の男が撃たれて死ぬとします。一瞬、平然とその男を見つめますが、すぐにまたパンを齧り始めます。それがなぜいけないのでしょうか? つまり、どうしようもないのです。しまいには、食事の約束をするときのような自然さで、塹壕内で自分自身の死について語るようになります」
 
…イザイの《無伴奏ソナタ第4番》が、頭に鳴り響く。
 
「われわれは何世紀もかけて学んできたことをなんと簡単に投げ捨ててしまうものかと考えると、私は悲しい気持ちになりました。かつては普通の文明人だったわれわれすべてが、二、三日後には、外套を脱ぐように“文明”を脱ぎ捨てて野獣か原始人のようになってしまったのです」
 
彼の曲に「『微妙な生命感』や『ペーソス』を感じる」とする人がいる。
心の奥底に何か途轍もないものを抱えた人が明るく振る舞っている、そんな?
多くの人がその笑顔の下にある何かにすぐには気付けない、そんな?
 
ヴァイオリニストに限らず、世の音楽家たちは、
時の権力や政治と密接な関係にあり、切り離して考えることはできない。
戦争によって人生を変えられた音楽家は多い。
家を失った人、故郷を失った人、大切な人を失った人、
活動を阻害された人、亡命を余儀なくされた人、
負傷によって音楽生命を断たれた人、命そのものを失った人。
 
今回、クライスラーを思い出したのは、いつにも増して物騒な話題が多く、
「戦争」だの「テロ」だのといった語彙が、絶えず耳に入るからである。
 
あの風貌、あの雰囲気、あの表情、そして、あの楽曲、あの演奏。
“クライスラー”、そのイメージとかけ離れた語彙=「戦争」。
彼を語るに、その「戦争」という語彙が不可欠だと知ったときのショック。
 
幸せを運んだクライスラーを思い出すときが、
幸せでない状況にあるときだというのは、悲しい。
 
クライスラーは幸せを運んでくれる。それでいい。
そうでなければいけないのだ。

 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第96回戦場のヴァイオリニスト

© 2014 by アッコルド出版

bottom of page