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現在開催中のバンフ国際弦楽四重奏コンクールでは、センターに泊まり込みコンクールを隅から隅まで味わうレジデント聴衆のために、様々な付帯イベントが用意されている。3日目のハイドン・セッションが始まる前、北米で人気のクラシック音楽キャスター、エリック・フリーゼンが数百人の聴衆に紹介するのは、審査員の池田菊衛氏。
 
 
解散から2ヶ月、既に「伝説の弦楽四重奏団」の仲間入りをした東京クヮルテットの第2ヴァイオリン奏者の口から飛び出す率直な言葉は、自らもご隠居が殆どの聴衆とすれば驚くべきものばかりだったかも。バンフ・センターの厚意により、対談内容をノーカットで翻訳掲載させていただく。じっくりお読みあれ。

 


フリーゼン:菊衛、北米ではこのような状況では、39年の東京Qとのライフワークが終わった今、どうお感じになっていますか、と質問することになっているのですが。

 

池田:とてもいい気分です。7月6日の前は、正直、心配でした。というのも、私たちは世界中をもの凄く忙しく旅していたので、この日が過ぎると何もすることがなくなって落ち込んでしまうのではないかと思えたもので。ですが、実際はそんなことはありませんでした。今と以前で最も違うのは、今は練習の時間があることです。

 

フリーゼン:それは啓示ですね。(聴衆爆笑)

 

池田:家にいられる日には、私は午前中に練習し、昼食後に練習し、夜にも練習していました。学生の頃はずっとそうしていました。自分の事ながら、そんな意欲には驚かされます。ええ。エチュードを弾くだけではなく、未だにもっともっと上達したいと思っているのです。幸いなことに、弦楽四重奏ではないふたつの演奏会があり、知らない人達と知らない曲を演奏する経験が待っていました。新たなチャレンジなんですよ。弦楽四重奏をやっていたときは、毎年25曲のレパートリーを演奏していました。最初の頃は、作品を知るために練習しなければならなかった。いちど身に付くと、練習は良い音程を保つためで、学ぶためではなくなっていた。この数ヶ月は、まるで学生時代のように練習しましたね。素晴らしい経験でした。

 

フリーゼン:では、淋しいとか、今どうしようという感覚とかは、なかったわけですか。

 

池田:何かを失ったとは全く感じませんでした。それよりも、もっと先に行こう、次の挑戦をしよう、と。

 

フリーゼン:それは素晴らしい状況ですね。でも、池田さんはとても美しい1680年のストラディヴァリウスを使っていらっしゃいましたけど、あの楽器も手放されたのですね。

 

池田:ロンドンでヒル氏にあの楽器を手渡したときは、友人にサヨナラをいうような感じでした。またいつかどこかでこの友達に遇おう、って感じでした。

フリーゼン:いつかどこかで、ですね(笑)。

 

池田:ですが、サヨナラを言って、ケースを手にしたら軽かった。その瞬間、ああもうないんだなぁ、と実感しました。

 

フリーゼン:良い楽器をお持ちなんですよね。

 

池田:ええ、ロレンツォ・ストリオーニがあります。そんなに使ってはいませんでしたが、実は一度ブラジルに行くときなどは使っていましたね。というのも、楽器を貸与してくださっていた財団が危険と認定した国があり、そこには持ち込めなかったんです。正確には保険会社が許さなかったのですが。残念ながらイスラエルも戦争地帯としてそこに含まれていて、ストラディヴァリウスを使う前は何度も訪れていたのですが、以降は訪れたことがありませんでした。

 

フリーゼン:今も良い楽器があると知り安心しました。最後には東京Qをオシマイにするパーティなどはあったのですか。

 

池田:私たちの最後のコンサートはコネチカット州ノーフォークでした。イェールのサマースクールとフェスティバルの開催地で、ここが最後の演奏会でした。私たちの音楽学部長がここで終わりにしなさいと命じたからでした。(会場爆笑)私たちは36年の間イェールで教えておりましたので。あの場所には多くの想い出がありますから、そこが終わりの場所になるのは、筋は通っていました。終演後に聴衆や大学関係者が集まったパーティをしました。

 

フリーゼン:まだ演奏能力があるのに、どうしてこの瞬間に引退を決意なさったんですか。

 

池田:今、ここで素晴らしい10団体の若い弦楽四重奏団を聴いていて、彼らがステージ上で示す能力は本当に驚嘆すべきものです。私は野球が好きなんですけど、4割打てたら偉大な打者ですよね。ところが音楽家の場合、9割9分の打率でも「まあ良いんじゃないか」なんです。(聴衆爆笑)いや、合格点も出して貰えないかも。的確な場所に音符を置く確率はほぼ100パーセントでなければならないのです。それを毎回繰り返さねばならない。

私たちは年に120回の演奏会をし、質が下がれば人々はそれに気付く。磯村君と私が言っていたのは、他人様に言われるようになる前に自分たちで止めよう、でした(笑)。

 

フリーゼン:テッド・ウィリアムズが、ホームランを打てなくなったら引退する、と言いました。ホームランを打つというのが、皆さんがしてきたことなのですね。

さて、この40年を振り返ってですが、池田さんが入る前に東京Qは4,5年存在していたのですね。

 

池田:5年です。とても幸運な交代でした。1969年に彼らが東京Qを始めた直後から、私は加入することが判っていたのです。1970年に日本に電話がかかってきて、東京Qに入ってくれないか、と。メンバーも名倉さん本人も、最初から第2ヴァイオリンはずっと続けていけないことが判っていたのです。
私は1971年にニューヨークに来て、3年間の東京Qに入るための予習期間がありました。普通はメンバー交代では2,3ヶ月、場合によっては数週間で、やって来てコンサートをしなければならない。私の場合は、東京Qが演奏旅行からニューヨークに戻ってくる度に、名倉さんに加えて私も練習に加わって、少しずつプログラムの準備を出来たのです。幸運にもオリジナルメンバーの名倉さんがとても親切で、退団後はドイツに住んでいらしたのですが、コンサートに来てくれて、この部分はもっと弾いても良い、ここは大きすぎる、などの具体的なアドヴァイスをしてくれました。彼女にはとても感謝しています。

 

フリーゼン:ちょっと調べさせていただきましたが、最初のニューヨークのコンサートのことをお話ください。

 

池田:私が喋ることを期待してるでしょ(笑)。私たちはモストリー・モーツァルト・フェスティバルで演奏していました。このコンサートは3,000人が入るエヴェリ・フィッシャーホールで行なわれています。で、私はズボンを忘れたんです。(聴衆爆笑)演奏会用のズボンを持ってこなかった。白いタキシードはあったのですが、ズボンはなかった。家に戻っている時間はありませんでした。それで市内に住んでいる友人のチェリストに電話して、彼のズボンを貸してくれないか、って。彼はOKという、でも気付かなかったんだけど、彼はズボンをできるだけ下げて履く奴だったんですよ。だから、凄く短い。真っ直ぐ歩けない程だったんです。私も出来るだけ下げて履きました(笑)。最初の曲はモーツァルトのピアノ四重奏で私の出番はなく、譜めくりを頼まれたんですよ。ですから、私は横向きで歩いて行った(笑)。それが私のNYデビューでした。

 

フリーゼン:世界中を東京Qでツアーしてまわったなかで、最もお気に入りの場所はどこでしたか。

 

池田:ボストンのジョーダンホールです。響きも聴衆とステージの感じも。ボストンのシンフォニーホールも良いですね。私たちはNYの92Yのレジデントだったのですが、あのホールもなかなか良かったです。他のホールでは、ロンドンのウィグモアホール。ヴィーンのムジークフェライン。全く違う視点からステージに立っているのが好きだったのは、カーネギーホールです。アイザック・スターンは「ここに立って耳をすませば、ハイフェッツやラフマニノフが聴こえる」って。勿論事実としてそんなことはないのですが、その感覚は得られます。背後にある歴史は本当に普通ではない。

 

フリーゼン:ここで偉大な人達が弾いた、という。

 

池田:ええ。

 

フリーゼン:一年に120回の演奏会をすると仰いましたが、実際に何回か数えたことはありますか。

 

池田:ありません(笑)。

 

フリーゼン:120回に39年をかければ、何千ものコンサートということになりますね。特に記憶に残るコンサートは。

 

池田:決して忘れないコンサートがあります。ミラノ・スカラ座でベートーヴェン全曲演奏をしたときのことで、1993年11月のことでした。その10月に母を亡くし、公表したわけではありませんが、私はこの演奏会を母に捧げるつもりでおりました。初めからいささか感情的になっていたのでしょうね。最後に演奏したのはラズモフスキー第3番で、アンコールでピーター・ウンジャンが「アンコールでカヴァティーナを弾きます」と言いました。ベートーヴェン自身が、この楽章を思うと涙が出ると言っていたお気に入りの音楽ですね。で、私たちは弾きました。私はとても感情的になっていて、泣きだしてしまったんです。

 

フリーゼン:演奏しながらですか。

 

池田:ええ。そんなことをしたことがなかったし、その後もしたことがありません。静かに弾き終えました。聴衆は身動きもせず、長い間、沈黙が続きました。勿論、私は顔を上げられません。泣いている自分に戸惑っていたのです。私たちはお辞儀をし、楽屋に戻りました。そのとき、メンバーのみんなが泣いていたんです。あの瞬間のことは決して忘れられません。

 

フリーゼン:そのような時に演奏するのはとても難しいと思うのです。人生の何かがそれほど心を動かしているときに、どうやって音楽を演奏するのでしょうか。

 

池田:実はあまり覚えていないのです。ステージの上では自分だけでなく他のメンバーのパートの演奏にも、もの凄く集中していますから、いつ自分が泣き出したか判っていなかったんです。ですが、自分の涙が楽器の上に垂れて、ああ自分は泣いているのだと判ったのは覚えています。

 

フリーゼン:もう心の中では泣いていた。

 

池田:ええ。

 

フリーゼン:ここの多くの人々が東京Qのレコードを持っているのですけど、自分でどれだけの録音をしたかご存じですか。

 

池田:いや、完全には判っていません。勘定したことがありませんし。それに、買えない録音があるんです。例えば、私たちは日本音楽財団から楽器を貸与されていて、楽器の調整や保険まで財団が面倒見てくれていました。その見返りとして、津波や地震の被害者のためのベネフィット・コンサートなどを盛んにしていました。そのCDを作ったりもしています。そういうものまで入れ始めるととても沢山あるのですよ。

 

フリーゼン:なるほど。私が数えただけで30から40、それに全曲録音もいくつも。みんなお持ちでしょ。

 

池田:ええ、でもいくつかのレコードは手元にひとつしかないものもあります。欲しいといわれることもありますが、いくつかはもう誰にも渡せません。

 

フリーゼン:聴きますか。

 

池田:妻は聴きます(笑)。車の中でなど、ときに「これ、他のに換えてくれない」と言うこともありますね。(聴衆爆笑)

 

フリーゼン:どうしてまた。

 

池田:そう、今ならもうないかもしれません。ですが、自分の録音を聴いていると耳がとても批判的になるんですよ。とても楽しんでは聴けません。

 

フリーゼン:批評家みたいに。

 

池田:こうじゃなくて、ああするべきだった、と。

 

フリーゼン:なるほど。ハルモニア・ムンディへの最後の録音はドヴォルザークとスメタナでしたね。たまたま最後に、それともなにか意図が。

 

池田:実はこの録音は3年前なのです。ドヴォルザークとスメタナはLPには丁度良いんですけど、CDの長さは78分でしたか。そうなるとちょっと短い。ですから、そのうちになにか良い曲を録音して適当な長さにしましょう、と思っていました。でもその時間がなかった。ハルモニア・ムンディが、これでいいだろう、と思ってくれて。

 

フリーゼン:で、短いCDになった。

 

池田:短いと買いませんから(笑)。

 

フリーゼン:でも最後のCDなら皆さん欲しいでしょうし。

 

池田:シューベルトの五重奏とか、ブラームスのピアノ五重奏、四重奏など、最後の録音にはいろいろありますから。

 

フリーゼン:最後の録音が沢山あるんですね(笑)。最後のツアーも長いものでしたね。


池田:ええ。5月に東京でコンサートをし、1週間のサヨナラツアー、それからソウルに行き、オーストラリア3週間。ニュージーランドに行き、戻ってきて、1日半家にいて、寝て、ヨーロッパに行きました。2週間演奏し、家に戻りまた1日半。それからノーフォークでの最後の演奏会。もうバテバテです。

 

フリーゼン:でももう元気になって、今はバンフにいらしてる。

 

池田:はい。素晴らしい場所ですね。

 

 

(2)へ続く。

 

 

取材協力:第11回バンフ国際弦楽四重奏コンクール事務局/CBC Radio 2 & CBC Music

第11回バンフ国際弦楽四重奏コンクール

11th Banff International String Quartet Competition

バンフ便り

池田菊衛&エリック・フリーゼン対話(1)

2013年8月28日バンフ・センターにて

 

 写真・翻訳:渡辺 和

 

エリック・フリーゼン

Eric Friesen


NPRやCBCラジオプロデューサーを経て、現在、クラシック音楽解説者として多くのコンサートシリーズや音楽祭のホスト役をつとめる。地元聴衆の反応は「Wow(わ、有名人)」。コンクール開催期間中は、朝のレクチャータイムの進行役、途中休憩での参加者インタビューを担当。

© 2014 by アッコルド出版

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