ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第133回
終わりよければすべてよし
サグラダ・ファミリアはこうなる!
John Cage《ORGAN 2 / ASLSP 》
ガウディに魅せられたのは、いつだっただろう。当時、
行きつけの書店にあった唯一の写真集、値段が高くて買えず、
店に寄る度に件のコーナーに行き、そっとページを開いて眺めていた。
それが売れてしまったときのショック、未だに忘れられない。
曲線的なデザイン、神秘的な細部の装飾、時に見せる荒々しさ、
生物的な建築とも称される彼の作品、実に魅力的だ。かといって、
好きなのか?と聞かれると、どうも素直に頷けない。どこか、
生命のグロテスクな部分が引き摺り出されているようにも見え、
そのドクドクと脈打ちそうな造形に心がざわつき、全身が粟立つ、
そんな自分が、「ガウディ好きです」とはとても言えない。が。
特に惹かれるのは、やはり、“サグラダ・ファミリア”だ。
出会った頃は、完成までに300年掛かると言われていて、
その時間的スケールの大きさにもまた、深く感動したのだ。
「神は急いでおられない。焦らなくていい」〜ガウディ
1882年に着工されたサグラダ・ファミリア、最近の公式発表では、
ガウディ没後100周年にあたる2026年に完成予定だという。
もしかすると、生きている間にその完成した姿を見られるかもしれない。
観に行くのは、無理そうだけれど。
☆
思えば、我々は区切られた時間に生きている。
〈楽曲〉は、ある時間がきたら必ず終わりを迎える。
それは、単なる「切り取られた時間」ではなく、
「有限の無限」とも言うべき世界であるのだが、
時間的に有限であることは紛うことなき事実である。
ヴァイオリン音楽においては、
「小品」と呼ばれるもののほとんどは、数分で終わる。
ソナタや協奏曲などは、比較的長いものが多いが、
それでも長くて40〜50分程度である。(十分、長いか)
長い曲=有名どころで言えば、例えば、
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏時間約40分、
『偉大な芸術家の思い出に』のタイトルで知られる
チャイコフスキーのピアノ三重奏曲イ短調作品50の約50分、
マニアックなものでは、レーガーのヴァイオリン協奏曲の約1時間。
一曲30分を超えると、弾き手にも諸々キツい部分は出てくるが、
弾いている最中はあっという間、時間はまったく気にならない。
どちらかというと、どれだけ聴き手が我慢できるかが問題なのだろう。
「人が集中できるのは一般的に40分程度」
「集中力の波は15分周期、最大限界は90分」
「意識的に集中できるのは2分」
そんな記事を読むと、納得せずにはいられない。
だって、楽曲(構成)、そんな感じで出来ている。
弾き手にだって、限界がない訳ではない。
あれは、まだまだ体力だけはある20代だった。
某オーケストラで、ワーグナーの《ニーベルングの指環》を、
演奏会形式で全曲上演するという恐ろしい企画・公演があった。
天下の朝比奈先生の指揮だったので気合いを入れて臨んだのだが、
練習始まると、すぐ心が折れそうになった。(指も折れそうだった)
正直、本番中ずっと思っていた。—「早く終わってくれ〜っ」
☆
「“終わり”はある(来る)ものだ」と言われれば、
終わらせたくないと思うのが、人間なのだろうか。
サグラダ・ファミリア越えの、こんな壮大な曲もある。
ジョン・ケージ:《オルガン2 / ASLSP(As Slow as Possible)》
この曲は639年以上の期間をかけて演奏するよう設定されている。
1985年にピアノ曲として作曲され、1987年にオルガン曲に編曲。
ピアノ版の演奏時間は凡そ20分から70分。オルガン版の演奏は、
ドイツのハルバーシュタットの廃教会で行われており、
2001年9月5日に始まり、演奏終了予定は2640年。
その頃、わが地球はどうなっているのだろう?
もっと凄いのが、目指せ1000年!《ロングプレイヤーLongplayer》
コンピュータが簡単なアルゴリズムで処理し生み出した、
20分20秒の曲をベースにした反復なしの膨大なバリエーション、
これを延々演奏し続けること1000年。しかも、この曲、
一曲演奏が終わったら、また始めに戻るのだとか。わぉ!
(ベースの曲はイギリスのロック・バンド『ザ・ポーグス』メンバー、
ジェム・ファイナーが作曲。チベットの鈴と銅鑼が使用されている)
クラシック界に比べ、短い曲が主流の他業界、
印象に残っているのが、パット・メセニー・グループの
『ザ・ウェイ・アップThe Way Up』(2005年発表)、翌年の
グラミー賞ベスト・コンテンポラリー・ジャズ・アルバム賞受賞。
便宜上4パートに分かれているものの、音は切れ目なく続き、
総演奏時間約70分。それは話題にもなるはずだ。
☆
例えば、4楽章形式のソナタがあるとする。
大抵、起承転結的展開がそこにはあって、
本来、曲が終わるまで音楽は完結しない。
でも、楽章ごとに“終わり”はある。終楽章までの楽章は、
余韻と期待を残しながら、それぞれ一旦終結を迎えるが、
決して、そこで“終わり”という訳ではない。
(だから、弾き手は基本的に、楽章を取り出して演奏することをよしとしない。)
楽章は、句点によって分けられる一続きの旋律、
センテンス(=フレーズ)で構成されている。
その“終わり方”は曲の要。神経を使うところだ。
通常の文章であっても、終わり方は様々。ましてや、
それが体言止めであったり、倒置法や省略法であったり。
いやはや、どれだけのヴァリエーションが必要なのだろう?
読点で区切られる文節(=短いフレーズ)、
そこには、音楽的“終わり”はない。あるとするなら、
次に繋げるための“終わり”だ。ただ“区切り”はある。
それは例えば、呼吸における「吸う・吐く」の折り返し点のような、
生理的、物理的、あるいは技術的な“終わり”。
終わってはいけない“終わり”。…難しい。
そして、モチーフ。
そして、最小単位である音。
ヴァイオリン弾き達は、常々、
“終わること”の難しさを、痛感している。
いつも、“どう終わるか”を考えている。
曲を、楽章を、センテンスを、フレーズを、モチーフを、
そして、一つ一つの音を。…どう、終わらせるのか。
だって、会話だって、語尾が聴き取れないと、
話がとんでもない方向に行ってしまうことがある。
音を弾き散らかしていないか?
靴は脱ぎっ放し、洋服はセミの抜け殻、
そんな演奏になっていないか?
顧みる。
☆
ヴァイオリン(属)は、
音を持続させることだけでなく、
“終わらない”を得意とする楽器でもある。
「弓の返し」というネックがあるものの、
その気になれば、一つの音(音楽)を終わらせることなく、
命果てるまで、ずっと弾き続けることも可能だ。
音の“終わり”をコントロールできる楽器は、
驚くべきことに、そう多くはない。
パートナーである“ピアニスト”が、
幾度となく悩みを打ち明けているではないか。
「ピアノという楽器には、指先の触れる鍵盤から直接弦をたたくハンマーまでの間に複雑なアクション部分がある。だからギターやハープのように指先で直接弦をはじいたり、または弓で弦をこするヴァイオリンなどと違って、ピアノには音を発する時の距離感というものがある。おまけにハンマーがいったん弦をたたいてしまえば、いくら指を鍵盤にのせておいても、音は減衰してゆくだけなのだ」〜高橋アキ
ペダルという強力な武器もあるけれど、
それは、ときに、
消えゆく命を繋ぎとめるかのような、
自身を無理矢理大きく見せようとするような、
そんな風に聴こえるときもあって。
演奏しない者に、その感覚は分かろうはずもないが、
ピアノ・ヴィルトゥオーゾ達の、指先で音を聴いているかのような、
美しくも妖しいタッチを見ていると、音の減衰も音の終わりも、
完全にコントロールできるのではないかと思わずにはいられない。
いや、できるのだろう。いや、しているのだ。きっと。
一方、
思うままに“終わり”をコントロールできるはずの、
我々ヴァイオリン弾きは、どうだろうか。
楽曲や楽章の終わりの音には、誰しも気を配る。
センテンスの終わりも、気を付けているかもしれない。
でも、短いフレーズやモチーフ一つ一つの終わり方、
音一つ一つの語尾にどれだけ心を尽くしているだろう?
終わるに終われず、繋がるに繋がれず、中途半端な音色のまま、
後ろ髪を引かれるように、悲しい影を刻んで消える音たち。
ときには端折られ、ときに断ち切られ、現世に思いを残したまま、
成仏できぬ無残な姿で、次の音を脅かしてしまう音たち。
レッスン中、その点を指摘すると、
よく返ってくる答え=「先のことを考えていて…」。
それは、分かる。昔、よく同じことを注意されていたから。
今でも考える。
こうしたい、こう終わりたいという自身の思いに対して、
どれだけ技術が応えているだろう、と。
クレッシェンドして、元気よく弾き切りたいのか?
ディミヌエンドして、静かにそっと消えていきたいのか。
加速して終わるのか、減速して終わるのか、
はたまた、テンポを保ったまま終わるのか。
一つずつの音の終わりに気を配るということは、
「いかに音と音とを繋げるか」を考えることでもあり、
延いては「旋律をどう弾くか」を考えるということでもある。
どこかが上手くいかないとき、
実はその音ではなく、その前の音の処理に問題があった、
なんてことは、少なくない。
その意味では、ボウイング設定も重要だ。
「単音のアウフタクトはアップで弾きたい」とか、
「小節の頭はダウンで弾きたい」といった生理的欲求の一つに、
「終わりの音はダウンで弾きたい」というものがある。
その欲求が満たされるボウイングであるときはよいが、
そうでないときは、思うような音になっていない場合が多い。
音楽的要求に応えるか。生理的欲求を満たすか。
ボウイングに悩む理由の一つが、そこにもある。
☆
あまりに壮大で長大な曲は、終わり方が難しい。同様に、
あまりに短い曲は終わったという満足感が得られず、難しい。
上手く終われない—それは作曲者の責任なのか、それとも…。
例えば、ベートーヴェンのバガテルOp.119 No.10。
ブレンデルの手によれば、演奏時間14秒。
いや、もちろん、なるほど!の楽曲である。でも。う〜ん。
例えば、スカルラッティのソナタK431、演奏時間38秒。
これを聴くと、一分という時間の長さ、大切さがよく分かる。(笑)
最後にこれを。
世界で一番短い曲としてギネスブックにも掲載されている、
イギリスのバンド〈ナパーム・デス〉の『You Suffer』いう曲だ。
演奏時間記録1.316秒。(演奏によって若干変わるようだ)
瞬き禁止というのはあるが、耳の場合はどう言えばいいのか?
ちなみに歌詞は“You Suffer But Why? (君は苦しむ、しかし何故?)”
なぜって、そんな曲を書くからだろう!
《LongPlayer》
Pat Metheny Group《The Way Up》Part1
Chopin : Nocturne in C sharp minor
for piano
for cello and piano
Liszt Consolation No. 3
-Horowitz
-Valentina Lisitsa
Beethoven : Bagatelle Op.119 No.10
Scarlatti : Sonata, K.431, L.83
Napalm Death:You Suffer