ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第132回

大いなるマンネリズム

全部、モーツァルト。
何が違って、何が同じ?

 

-Kyung Wha Chung
Mozart Violin Sonata K.304

-Hilary Hahn
Mozart Violin Sonata K.376

酷暑や長雨を理由に、しばらく庭仕事をさぼっていた。
が、物言わぬ相手なれど草木も生き物。
しかも、無理矢理、我が家に連れてき子達だ。
いつまでも放置という訳にはいかない。

 

育児放棄を責めることなく、可憐に咲く秋明菊に誘われ、
久し振りに庭に出ると、眼前いっぱいに広がる蜘蛛の巣がある。
そこを通らねば庭に出られない。避けられる大きさではない。
ごめんねと言いながら、蜘蛛を殺さないように巣を外す。
巣の中央に鎮座していたジョロウグモが慌てふためき消えて行く。

 

一度始めると、すべき仕事は尽きない。
次の日も庭に出る。すると、まったく同じ場所に、
同じ蜘蛛が、ほぼ同じ大きさ、同じ仕様の巣を張っている。
そこが彼女にとって、ベストな場所なのだろう。
「だからね、ここはダメなんだよ」、陳謝しながら、
また巣を外す。一瞬、彼女に睨まれた気がして怖くなる。

 

次の日も同じ場所に彼女がいた。参ったなぁ、根競べか。
しばし眺める。 同じような巣なのだが、昨日と何かが違う。
もちろん網の模様が違うのは当たり前なのだが…ああ、そうか。
網を固定する部分の枠糸の本数が増えて、強化されている。
だから、全体的にどっしりした印象になっているのだ。
おぬし、やるなっ。しかし。

 

糸が何本増えようが、そんなことは大したことではない。
早くこの場に巣を作るのを諦めてくれと願いつつ、
三度、破壊する。こちらの武器は小枝一本だ。
庭の隅に放り投げられた彼女は、すごすごと葉の陰に退いた。

 

次の日も、彼女はそこにいた。背後に気配を感じたのか、
素早くこちらに向き直り、網を激しく揺らして威嚇してくる。
ギラギラ光る不気味な8個の眼。負けず、同じ作業をする。

 

5日目、彼女は縄張りを明け渡した。

 

 

ある日、友人から話があると喫茶店に呼び出された。
喫茶店に呼び出し…ありそうでなかなかないシチュエーションだ。
淹れ立てのコーヒーの芳しい香りに包まれながら、彼女は明るく、
「昨日、レッスンでいっぱい叱られちゃった」と切り出す。
違う師を持つ者同士で、レッスンの内容について話すことは少ない。
深刻な話なのかな、きっとそうなんだろうな。じっと次の言葉を待つ。

 

その先言い淀んでいた彼女が、視線を落としたまま「あのね」と言う。
「あのね、私ね、モーツァルトが全部同じに聞こえるの」…あぁ。
「そんなことってない? ないよね…」
「だから、モーツァルトの曲、弾き分けられないの」
「全部同じになっちゃうの、それで叱られるの。どうしよう?」
堰を切ったように、彼女の薄い唇から、言葉が溢れ出る。
「こんな耳じゃダメだよね。まずいよね」
「私、このまま音楽の勉強続けて、いいのかな」
「この先、ヴァイオリンで仕事していけるかな」
「ねぇ、どう思う?」
音大の味噌っ滓にはとても荷の重い相談だった。

 

モーツァルトはみな同じで、みな“モーツァルト”だ。
モーツァルトの曲を“モーツァルト”と分からない弾き方で弾けば、
それはそれで、とんでもないことだと叱られる。業界には、
「モーツァルトの弾き方」なんてものがあるのだ。でも、
モーツァルトの違う楽曲を、どれも同じように弾くと、
それはそれで叱られる。なんてこった。禅問答並みの難しさ。

 

そしてそれは、作曲家個人の話に限ったことではない。
例えば、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン初期、
この周辺の楽曲には似た雰囲気の楽曲もある。弾き手が弾き間違えれば、
全部同じにも聴こえるし、誰の曲か分からないことだってあったりもする。
(作曲家本人が積極的に誰かの曲を参考にして作曲したりもするから、
 すべてがプレーヤーの責任ではないのかもしれないけれど…)

 

自身至極悩んで、真剣に聴き比べをしたことがある。
モーツァルトの違う曲を、同じヴァイオリニストの演奏で聴く。
モーツァルトの同じ曲を、違うヴァイオリニストの演奏で聴く。

 

必死に聴いた。「何が違うのか」を。
でも、違った。
聴くべきは、「何が同じか」だった。

 

それが、その作曲家の、その楽曲のコア。
それが、そのものの本質に最も近い部分。

 

 

いつも同じ手順で、
いつも同じスタンスで、
いつも同じ方法で練習している自分。

 

楽曲と自分の関係について考える。
こんな風に、いつも同じ距離感でいいのか。
曲が違うのに、いつも同じ勉強方法でいいのか

 

本来、曲とはどんな関係であるべきなのか。

 

ある俳優さんが共演者について語っていた。
「親子の役だからといって無理に仲良くなることはない」
「よい関係は自然に生まれるものだよ」と。

 

 

小さな生徒さんが宿題の曲を弾く。もちろん、
いろいろな問題がある。彼もそれは分かっている。が、
特に何も注意せず「もう一回、弾いてみようか」と言うと、
彼は「え〜、もう一回?」と、ちょっと不満そうに、
『もう一回』弾く。ただ、もう一回。
何も気にせず。何も考えず。ただ、もう一回。
自分もそうだったなと、心の奥で苦笑する。

 

練習自体がひどく嫌いだった訳ではない。多分、
毎日練習しなければならないことが、嫌だったのだ。

 

振り返れば、大した練習はしていなかった。
適度に小器用だったから、多少の部分練習と何度かの通しで、
その頃の課題は、それなりに何とかなっていた。
技術をひと通り学ぼうという時期、凡そ形になれば合格。
ひとつ課題があがれば、また少し様相の違う課題を貰える。
新鮮な感覚で練習できることが、何より嬉しかった。

 

でも、スケール類やセヴィシックなどのテクニック教本は、
来る課題来る課題、どれも同じに思えて終わりが見えず、
ひどく辛かった。『修行』なのだと思って我慢して続けた。
それでも、頭の中ではこんな文句が渦巻いていた。
「なんでこんなに同じことを繰り返さなくちゃいけないんだ!」

 

今なら分かる。
持続性課題や反復練習の意味、その重要性が。
無意味に見える同じことの繰り返しが、
身体を作り、配線を作り、反射速度を上げる。
すべてのベースとなる基礎、それを、
身体に叩き込み、馴染ませ、一体化させる。

 

できるまで繰り返す。できたら、できたものを繰り返す。

 

そう、それすら分からず、練習をしていた。
できるようになるために、繰り返しているのか。
できるようになったから、繰り返しているのか。

 

大体、本人が同じことの繰り返しだと思っていても、
実際それは“同じもの”ではない。良くも悪くも変化している。
良くなっているのか、はたまた、悪くなっているのか。
その判断すら、人任せにしていた。自分の耳で確認せず。

 

最近は、開放弦のボウイングを弾く度に思う。
どうして、毎回“同じ”に弾けないんだろう?と。
よくなった…そう思うときもある。でも、満足できないことも多い。
できていたものが、突然できなくなってしまうことすらある。

 

その差が見えるようになってから、
練習に集中できるようにはなった。これは大きな進歩だ。
楽しいかと聞かれると、少々答えに詰まるが(笑)。
ただ、見えたとき、できたときの達成感はたまらない。

 

「練習が面白くないときは危険」という先輩の言葉は、多分正しい。
成果が見えないから面白くない。成果が出ないから面白くない。
そういうときは「無駄な練習や逆効果の練習をしている可能性がある」。

 

 

レッスンで「どんな練習をしてきたの?」と聞かれたことがある。
ひどく出来が悪かったのだろう。いや、自分でも気付いていた。
でも、まさかそんな風に聞かれるとは思っていなかったから、
すぐには返事できず、ようやく絞り出した答えが、
「いつもと同じように」 我ながら情けない。

 

できないのは、練習が足りないからだと、つい考えてしまう。
「大切なのは、どれ位練習するかじゃなくて、どう練習するか」
でしょう?という師の言葉に、不肖の弟子は頷くしかない。

 

いつも、思っている。—「自分には何かが足りない」
だから、まるで依存症のように、あれもこれも、
次から次へと際限なく、必死に手に入れようとする。

 

足す、加える、増やす、膨らます。
本当にそれでいいのだろうか。それだけでいいのだろうか。

 

共にモーツァルトの弦楽四重奏を勉強している仲間が、
練習後にボソッと呟いた。—「何もしないことが難しい」

 

できないことがあると、手に持つテクニックをありったけ使い、
なんとかしようとする。出来の悪い不味いスポンジケーキを、
デコレーションの味や見た目で誤魔化そうとするかのように。
足りなければ、さらに材料を足そうとする。小手先の技術を加える。
すると先達に諭される。スポンジケーキで勝負しろと。

一度、デコレーションを取ってみろ、と。

 

引き算の思考=引く、削ぐ、減らす、抑える、絞る。

 

 

例えば、スタッカート課題のエチュードを与えられたとする。
譜読みよりも何よりも、スタッカート自体が上手くいかない。
弓を急速に動かし始めることができない。弓が速く動かない。
スピードをコントロールできない。勢いの付いた弓を止められない。
止め方にヴァリエーションを付けられない、エトセトラエトセトラ。

 

まず“スタッカート”をマスターしなければいけないのだが、
楽譜を弾きたい、弾きこなしたいという欲求が先に立ち、
どうしても楽譜から離れられず、いつもと同じ練習をしてしまう。
できないまま、苦しいまま、漫然と時間が過ぎる。

 

例えば、同じリズムパターンが続く曲がある。
なんとなくは弾けるようになるが、なかなかスッキリしない。
左手を外せと言われる。右手は同じリズムを刻んでいるだけ。
できるはずだ…なのに、同じことを正しく繰り返せない右手を発見する。
ましてや、不規則な移弦が加わると右手はパニック。
呆れる左手。これでは、スッキリ弾けようもない。

 

ある要素を抜いて練習するのは、意外に難しい。
一歩引いて練習するのは、予想以上に勇気が要る。
同じことが嫌いな癖に、同じことをしたがる自分。

 

 

KFCフライドチキンは、絶対オリジナルチキン。
インスタントラーメンは、明星チャルメラしょうゆ味。
気に入ったカレールーが姿を消すと、なぜなの!と泣く。

 

ミニマルミュージックを聴くと、いつも同じ感覚になれるから幸せ。
小田和正さんなら徳永英明さんなら、何の曲でもいつも同じに心地よい。
好きなバンドが急に音楽の方向性を変えると、ひどくガッカリする。

 

実は、地道な反復作業が好きだ。
毎日同じスケールを弾いて、悦に入ったりもする。

 

日に日に劣化する身体に、昨日と同じ作業を課して、
今日できたときの幸せを噛み締めるという、史上最高の繰り返し。

 

いつも同じは嫌だ。同じことの繰り返しは嫌いだ。
という自分がいて、
全部同じでいい。いつも同じがいい。
という自分がいる。

 

「おかあさん おかあさん えほん よんで」
「また これなの? 違うのにしない?」
「いいの これがいいの ね よんで よんで」
今日も、明日も、明後日も、同じ絵本。

 

愛しきマンネリズム。

-Ivry Gitlis
Mozart Violin Sonata K.301

-David Oistrakh
Mozart Violin Sonata K.454

Steve Reich - Violin Phase

© 2014 by アッコルド出版