「ヴァイオリンの人ってなんだか、先生との関係が密だよね」
そう、ピアノの友人に言われたことがある。そのときは特に、
深く考えることもなく、「そうかな」なんて軽くスルーしてしまった。
 
しばらくして同じようなことを、別のピアノの友人に言われた。
さすがに引っ掛かる。本当にそうなのだろうか? 
関係が密? よく分からない。たまたま、彼女たちが知る、
ヴァイオリン科の生徒たちがそうだったというだけではないだろうか?
 
でも、その流れで一つ思い出したことがある。それは、
専科以外の音楽の基礎を叩き込んで下さった恩師のレッスンのこと。
受験のための副科ピアノのレッスンもお願いしていたのだが、
厳しさは保ちつつも、いつも優しい大好きな先生が、
なぜかピアノのレッスンの時だけは、別人のような印象があったのだ。
 
もちろん、ピアノだけ厳しかったといったことではない。
なのに、どこか違って。少し遠いような、そんな。
毎週先生が入れ替わる地元音楽教室でのヴァイオリンレッスンでも、
一度も感じたことのない不思議なひんやり感。不安になって、
隣のピアノの前に座り、説明をしている先生の様子を伺ったこともある。
何ら変わることのない先生がそこに。あれは何だったんだろう。
 
そういったことが、すっかり記憶の隅に埋もれてしまった頃、
弦楽四重奏について熱く語っていたある先輩の言葉がスイッチを押した。
「弦楽器は『目に見える共通言語』を持っているからね」
目に見える共通言語とは、すなわち“ボウイング”のことである。
頭の奥底にピリピリと電気が走り、何かが胸の内側をガリガリ引っ掻く。
 
―共通言語。
 
 
ある本に、『言葉の4条件』なるものが書いてあった。
(1) 音(単語)と意味が対応している。
(2) 文法がある。
(3) 発声学習ができる。(真似ができる)
(4) 社会関係の中で使い分けられる。
 
学習初期で使用する教本やエチュード類には、大抵、
懇切丁寧に、ときには「一言一句」ボウイングが記載してある。
そして、先生は生徒に「書いてある通りに弾く」よう注意を喚起する。
「まずはオーソドックスな(正統派の)ボウイングを学びなさい」
「そこには意味があるのよ」と言って。
 
上手く弾けないでいると、眼の前で弾いて「手本」を示してくれる。
我々はそれを見て聴いて「真似して」覚える。やがて、
ボウイングは「自分で考えるもの」だと教わる。
状況に応じて「使い分ける」能力が必要だということも。
 
ちなみに、同じような学び方をするフィンガリングだが、これは、
あくまでも“個”のもの、伝承の対象ではあるが関係に支配性はない。
だから、どんな変なフィンガリングをしていても、
技術的にこなせてさえいれば、然るべき表現さえできていれば、
それではダメだと、他人から真っ向から指摘されることはない。
(レッスンで叱られるであろうことは必至だが…笑)
 
もちろん、共通言語ではないというだけで、
フィンガリングが音楽を創る重要なファクターであることは、
決して、忘れてはならないのだけれど。
 
 
この共通言語は、あくまでも同種同属楽器間に存在するもの。
一般的に、オーケストラにおいて弦楽器奏者は、
指揮者がボウイングに口を出すことを嫌がる傾向がある。
「違う世界の人間が口出すんじゃねぇよ。ろくに喋れもしねぇくせに」
ってなもんである(笑)。その行為に対する拒否感は、もしかすると、
指揮者や他の楽器奏者が思っている以上のものかもしれない。
 
それは、「ボウイングが単なる言語ではない」ところに理由がある。
ボウイングは奏者の“内面の表出”なのだ。
 
ボウイングには奏者の思考過程が、感情が、心象が、露出する。
まるで自身が書いた私小説を、自身が朗読するかのように。
その出す“音”、奏でる“音楽”だけでなく、
“ボウイング”という目に見える形で、
ヴァイオリン弾きは、全てを曝け出しているのだ。
 
以前、とてもそんなことを言いそうにない友人が、
「ヴァイオリンの右手の動きってエロティックだよね」
と言っていた。「何だか妙に生々しい」とも。…確かに。
 
表現力の豊かなヴァイオリニストほどそうかもしれない。
美しく艶めかしく撓る右手は、まるでそれ自身が、
意志を持ち、何かを発信し続ける生き物のようでもある。
 
一方、左手の動きは直線的なものが多く、実にメカニカルである。
狭間にある奏者の顔が深刻な表情に彩られていると、
その二者の我儘に翻弄され、そのアンバランスさに辟易し、
我何を為すべきかと、苦悩しているように見えてしまう。
理知的な左手が、奏者に同情して妥協策を提示する。
「ヴィブラートを掛けてやるよ、ほら、楽になっただろう?」(笑)
 
ボウイング―そこには、
『自分』が、『自身』が、『私』がある。
だから、一人一人違う。
ボウイング付けも、弾き方も。
 
ボウイング―そこには、
意見があり、主張があり、理念があり、信念がある。
だから、運弓動作が委縮していると消極的に見える。
臆して語れず、ただ震えるだけの子供のように。
 
こう言われたことがある。
「随分、ちまちま弾いてるわね。言いたいことは、それだけ?」
思い出すだけで胸が痛くなる。はぁぁ。
 
 
而して、
ボウイングは言語である。
ヴァイオリン(属)の共通言語であり、
大切なコミュニケーション・ツールである。
 
例えば、アンサンブルなどで日常的に行なわれる
“ボウイングを揃える”という行為、
「同じ音を出すための一番手っ取り早い方法」
という理由で使われる一手段なのだが、それが、単に、
“動き”だけの問題だけではないことを、さらに、
“音”だけの問題でもないことを、ヴァイオリン弾きはみな知っている。
 
そう。ヴァイオリン弾きは、ヴァイオリン族の人間は、
常に他人と「腹を割っての話し合い」をしているのだ。
 
だから、弦楽四重奏のボウイング決めなどは、密談の様相を呈する。
ピアノの入った室内楽、弦楽器群がボウイングを決め始めると、
「ひどく疎外感を感じる」とピアニストは笑いながらぼやく。
正直なところ、そういう部分もあるだろう。
いやいや、仲間外れにしているということではなく。(笑)
 
身体で、動作で同期する。頭でもなく、心でもなく。
それが、アンサンブルで折り合いが付く理由の一つかもしれない。
 
まったく違う人間が集まって、一つ事をしようというのだ。
心の中では「折れる」「譲る」「諦める」「妥協する」「我慢する」、
そんな気持ちが溢れそうになっているはずだ。それが音に出ないのは、
ボウイングという動作を借りて、身体でシンクロすることができるから。
大っ嫌いな人とでも一緒に弾ける理由がここにある?
ヴァイオリンはそういう意味では、得な楽器なのかもしれない。
 
 
“共鳴動作”=乳児が大人の動作に合わせて同調的・共鳴的にそれを反復すること。
例えば、赤ちゃんに食事を与える時、スプーンを差し出し「アーン」と言いながら、
親は自分の口を開けてみせる。すると赤ちゃんもつられて口を開ける、というような。
 
単なる反射ではないが、本人は意識し意図することなく模倣している。
これをすることで、弱き幼子は生きる術を学び、愛をも獲得する。
 
「自我がまだ芽生えていない赤ちゃんには、自他を区別する垣根がない。故に、
 その行為・行動は自然に何の抵抗もなく行われるが、大人には難しいものである」
 
大人には難しい?『言語』を得、それが優勢な世界に長く生きて、
身体的次元での共鳴や同期といった能力を封じ込めてしまったのかもしれない。
(特に日本人はそう? ボディランゲージ苦手だもんなぁ)
 
しかし、ヴァイオリン弾きは大人子供関係なく、
常にこれを行なっている。あるいは、行なう体勢にある。
 
レッスンでは、先生が手本を弾いて見せてくれる。
ときには一緒に弾いてくれる。そのとき、先生と生徒は、
ほぼ向かい合っている。少なくとも互いが視界に入っている。
 
生徒は先生のボウイングを見ながら、意識的に真似をするが、
真似をしようと殊更思わなくても、一緒に腕が動くことも多い。
さらに。
学ぼうと思っていなかったことまで気付かず学んでいることを、
そして、その内容が少なくないことを、後で知るのだ。
 
共鳴する。
同期する。
言葉は要らない。
一緒に弾けば分かる。
 
「共鳴動作は他者との融合である」…なるほど。
 
そんなことを日々繰り返しているのだから、
その関係、密にもなろう。
 
 
ボウイングというシンクロに最適な手段を持つヴァイオリン。
結果として、群で生きることを得意とする楽器“ヴァイオリン”。
 
オーケストラの弦楽器の配置は、アンサンブルとしては特殊だ。
指揮者に向かって同方向に並ぶ、向かい合えているのはトップ・プルトだけ、
こういった形は、奏者同士の共感・共鳴を阻むものであろうに、
一糸乱れず演奏することが可能である。これは、
ボウイングという同期できる手段を持っているからではないだろうか。
 
だからか、向かい合って座り、アイコンタクトや気配など、
ボウイング以外の同期する手段も持つアンサンブルは、
きちきちにボウイングを合わせなくても、互い同じ世界に入ることができる。
 
ヴァイオリン・ソナタの演奏を考える。
いつも、「どうピアノを視界に入れるか」悩む。
向かい合うことも可能だが、そうするとヴァイオリンは、
客席に楽器の裏、身体の裏を向けることになる。
 
止むを得ず、ピアノの横に同じ方を向いて立つことになるが、
ピアニストを視野に入れたくて、一歩(下手寄りに)下がると、
「見えないから、前に出て」とピアニストに言われる。
でも前に出ると、ピアニストは見えなくなり、気配も遠くなる。
 
なんとか折り合う位置を見つけたとしても、
ヴァイオリニストは、ピアニストを見るのが困難だ。
見ることを諦める。開き直って、他の手段を探す。
それに、ピアニストがこう言うのだ。「私が見ているから大丈夫」
これでは、「勝手に弾くからよろしくね」的関係に見えても、
致し方ないのかもしれない。いやはや、難しい。
 
 
尊敬する先達たちのボウイングを真似することで、
奥底にある自分の力を引き出すこともできるし、
共鳴動作的に自分にないものを獲得することもできる。
 
こう考えていくと、気を付けるべきは自身である。
自分のことしか考えていない、自分のことしか見えていない、
そんな状態では、共鳴も、同期も、できはしない。
 
メトロノームだって同期するのに同期できない奏者ってどうなの?‼
 
オーケストラの合奏においては、「どれだけ弾けるか」ではなく、
「どれだけ同期できるか」に重きを置くべきなのかもしれない。
 
ボウイングの伝達は、
自身の血肉を削って分け与える、無償の愛。
ボウイングの共有は、
仲間であることを証明するための、帰属の証。
本来、そこに余所者の入る余地はない。
 
だとするならば、
他者を受け入れる力も学ぶ必要がある、と。
気配だけでシンクロする力を。音だけで融合する力を。
 
ああ、大変だ。指揮者さ~ん、戻ってきて~。

 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第119回

同期するヴァイオリニスト

Gidon Kremer

こんなに違う! フランクのヴァイオリン・ソナタのボウイング。

 

同じボウイングで弾き、弾き方を真似していると、少し彼らの世界に近付ける気がする…。

Isabelle Faust

Yehudi Menuhin

クレーメル、ファウスト、メニューインの

ボウイングです。

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Synchronization of Metronomes

バラバラだったメトロノーム君達、舞台に乗ると同期します。

 

舞台を降りると、またバラバラになります。人間っぽい?

© 2014 by アッコルド出版