尾池のブルーマンデー憂さ晴らし

ヴァイオリニスト 尾池亜美

第92回 

こんにちは! 憂さ晴らしのお時間です。
先週に続いて、日本で音楽をすることをゆっくりと考えていました。
 
「道」という素晴らしい漢字があります。
成り立ちをさかのぼれば、「獲った敵の首をもって悪霊にとりつかれない様にしながら荒れ地を切り開いていく」という恐ろしげなものや、「人々の顔(=首)を見渡せるほど開かれている様子」など色々ですが、私達はこの「道」を、歩く場所だけでなく、人生そのものや、孔子などの説く「道(タオ)」、そして茶道、剣道などと、ジャンルを越えて使っています。
 
そのせいか、私の周りでクラシック音楽をやっている人たちとの会話でも「音楽の道を行きたい」とか、「音楽の道は険しい」という言葉を耳にします。これは一体どういうものなのでしょう。日常を音楽と過ごすこと? 演奏を極めること? それとも音楽で生計を立てていくことでしょうか。
 
剣道や茶道で考えてみると、これらは日本とその近隣の伝統文化で、「その道を極める」事に価値を置き、それぞれ大家が自身の経験から精神論を語っており、その記録があります。精神論、といえば、最近では苦労を強いられるケースとか、若者が目上にお説教をされてる時の内容を指したりもしますが、本来は、自分の中で「道」を見つけるための、己を高めるための論理なのだと思います。
 
自分自身で見つけて行くものですから、まさに十人十色、カラフルなものになるはずです。そして自分で経験したからといって「こういうものだ!」と他人へ押し付けることは本来不可能なもののはずです。
 
他人との関わりの中よりも、先ず己の中に見つける、道。そうだとしたら、これが西洋音楽をやる場合にもそのまま当てはまるのでしょうか。
 
一つ決定的な違いがあるとしたら、それは観客の有無です。西洋音楽は教会から、1000人、2000人(時にはもっと)の観客をもつパフォーマンスへと膨れ上がりました。それは演奏家の発するものと、観客の受け取るものがあって初めて成り立ちますし、作曲家は多かれ少なかれ観客とシェアされることを想定して曲を残します。一人でする練習はどちらかといえば修練(practice)や取り組み(work)と呼ばれます。
 
西洋音楽は曲が作られた時ときから未来永劫、外へ発するものです。作家が内省的な性格を持っていたとしても、作品は人へ見せるもの、人同士で価値が作られていくものです。それに対して、「道」は己の中で価値を作っていくものです。
 
「道」というのは全く形がないのです。まったくの無の状態のところに、心のなかで道を敷いていくのです。目に見えない物の蓄積です。良く言えば無限の可能性がある、悪く言えば盲目的です。
 
反対に、西洋音楽は発祥のときから「対象」がありました。目に見えるもの、理解されるものの蓄積です。音はもちろん目に見えないけれど、はっきりと聞こえる振動=音とされ、音楽理論では旋律、和声、拍子から成り立つと教わります。良く言えば論理的、悪く言えば、小難しくなる、または奥行きに欠けるかもしれません。
 
もちろんどちらにも「心」があります。音楽も人が自分の内と外、両方と向き合って感動的なものになります。それは置いておいて、の話です。
 
自分のこれまでの音楽のやり方を振り返っても、日本で人と関わる中で教わるものは、やはりこの「道」とか、精神論の要素が強かったように思います。演奏家本人の成長を大事にすることや、「心を込めて」演奏すること、そして楽器を一筋に練習することがよしとされることが多かった気がします。
 
そしてヨーロッパで演奏してきた中で、観客の皆さんを前にして、自分の別の部分が見られていることが解りました。次回はそれがどんなものだったかをお伝えできればと思います。
 
それでは、よい一週間を!!
 

Ami Oike

French Romanticism

尾池亜美 ヴァイオリン

 

尾池亜美(ヴァイオリン)

佐野隆哉(ピアノ)

 

セザール・フランク:ヴァイオリン・ソナタ・イ長調

カミーユ・サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ第1番ニ短調Op.75

クロード・ドビュッシー:夢

 

定価2,500円(税込)

 

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