友人が、ハイフェッツのDVDにある運指のスロー映像が面白いと言う。
見たことがないと言うと早速、件のDVDを送ってくれた。
 
先日、クライスラーについて勉強し直した際、
彼とハイフェッツの誕生日が同じ2月2日で、互いに
カードのやり取りをしたこともある、なんて微笑ましい記事を読み、
それを意外に思う自分が不思議で、ハイフェッツへの興味が再燃、
丁度、彼に関する資料を引っ張り出していたところだった。
 
実は、“ハイフェッツ恐怖症”である。
昔から、その音源や映像に触れる度に、
あの恐るべき高さにある『技術的理想』を突き付けられ、
今更と思いつつも、その都度ガックリくるのである。
 
もちろん、偉大なヴァイオリニストは多く、今に至っては、
技術的にハイフェッツに匹敵する奏者も少なくないだろう。でも、
あの凛として、「ヴァイオリンかくあるべし」と語るかのような演奏に、
同じ楽器を持ちながら、ただただひれ伏すしかない自分が、少し、
いや、心折れるほど、悲しくなったりするときもあるのだ。
 
シェリングは彼を「皇帝」と呼んだ。
オイストラフは「世の中には大勢のヴァイオリニストとハイフェッツがいる」と言い、
スターンは「私の記憶の中にあるヴァイオリニストの中で無比の磨き抜かれた演奏ぶ
りの基準を代表している」と述べた。
音楽的に対立したこともあるA.ルビンシテインも「最も魅力的な芸術性と素晴らしい
才能を持ったヴァイオリニストである」と語り、
トスカニーニは「ハイフェッツが(今まで聴いてきた)弦楽器奏者の中で最高だ」と断
言した。
演奏を聴いたクライスラーはジンバリストに言った。—「我々は自分たちのヴァイオ
リンを膝で叩き割ってしまった方がよさそうだ」
ハイフェッツの演奏会、その客席でエルマンは「ここは暑いなぁ」と汗をぬぐい、隣
に座っていたピアニストのゴドフスキーに「ピアニストには暑くありませんがね」と
突っ込まれたとか。
 
“至高”という言葉が似合うヴァイオリニスト、ハイフェッツ。
 
 
さて、ハイフェッツの高速運指のスロー再生映像である。
 
指が長いのなんのって。ああ、そこじゃないか。
いや、でも、まずはそこかもしれない。
ハイポジションにシフティングしても、親指はネックに留まったまま。
オクターヴなんてなんのその。10度だってものともしない。
必死感ゼロ。ああ、なんて羨ましい。
 
スローで見て、一番意外だったのは、
女性的にさえ見える、しなやかな指の動きだ。
演奏姿勢だけを見ると、ピシッと立ちパリパリ弾く、
男性的な硬派な印象があるが、左手はと見ると、
その指は長く美しい。動きも実に柔らく優雅。
ラカトシュやオイストラフ、スターン、パールマンたちの、
可愛らしく踊る『ウィンナー指』とは全然違う。
 
映像はヴィエニアフスキの《Scherzo-tarantelle op.16》、
高速運指の代表のような曲、そのせいもあるとは思うが、
弦をしっかり押さえているようには、全く見えない。
弦に触れる部分は指の腹であったりもするし、ときには、
第一関節を潰した、一見ふにゃっとした形で着地したりもする。
ただ撫でているようにしか見えないときもある。
ここから、あの『完璧なイントネーション』が生まれているのか…。
 
手の小さい日本人が、ハイフェッツと同じ構え方・弾き方をして、
彼と同じ音が出るとは到底思えない。だが。
 
めりはりのよい演奏、クリアな音を聞けば、つい、
「(左手指の)関節はしっかりしているのだろう」とか、
「弦はちゃんと押さえているに違いない」とか、
「パシパシ叩いているのだろう」などと勝手に想像してしまいがちだが、
誰しもがそう弾いている訳でもないし、弾かなければならない訳ではないのだ。
 
ああ、また勝手に思い込んでいた…と深く自戒する。
ゆっくりじっくり、ハイフェッツの演奏を聴く。
目を閉じて、聴く。
正直、好きな演奏ではない。でも…。
 
新たな発見をする。耳も変わるのだと知る。
弾き続けるだけではなく、聴き続けることも必要なのか。
 
 
資料として開いた山田耕作著作全集に、気になる文を見つけた。
『眼から耳の時代へ—交響楽の問題』の中の一文だ。
「日本には現在単にこれを音楽的方面からの見地のみでなく普通一般の方面から見て
何が最も欠如しているかと云えばいわゆる『聴く力』である。日本人が他の欧米諸国
の人に常に一歩遜らなければならぬ理由も耳にあると考える」(昭和5年2月14・15日
中央新聞)
 
たまたま読んでいた外山滋比古氏の文と重なる。
「日本には文字のことば目のことばを、話し聴く耳のことばよりありがたがる風土」
があると。
視覚的言語の優位・視覚的思考の傾向は、1933年来日した世界的建築家
ブルーノ・タウトにも指摘されていたという。=「日本人は目で考える」
 
「明治になってからの外国文化の摂取も、文字、書物中心の目のことばによってすす
められた」
昭和世代の自身が受けた国語&英語教育も、同様だったと感じている。
本来は「耳できいて、口で話す、というのが言語習得の基本」。
しかし、日本は、読み書きから言葉の教育を始める、と。
 
外山氏は“人の話が聞けない学生”についても、こう書く。
人の話が「聞けなくなった」のではなく、元より日本人はそういうところがあると。
思い当たることも少なくない。例えば、
先生が板書をせず、話だけで講義や授業を進めようものなら、
生徒たちはボーっとし、窓の外を眺め、挙句に机に伏せて寝たりする。
ならばと板書すれば、先生の話もそこそこにせっせとノートをとる。
 
そう言えば、ワークショップ開催に当たって、主催者から、
「レジュメや(紙)資料を用意して頂けると嬉しいのですが」と頼まれた。
内容がそれを必要とするものだから、ワークショップでは用意している。
しかし、基本、ヴァイオリンのレッスンに『紙と鉛筆』は使わない。
 
音は“耳”で聴く。注意も“耳”で聞く。覚えるのも“耳”。
 
譜面の行間を読むのは得意なのに、暗譜が苦手。
楽譜の分析はできるのに、音で表現することは不得手。
ボウイングやフィンガリングを必死で書き込み、その通りに弾けないと苛立つ。
いつまで経っても譜面から目を離せず、視覚に捉われた演奏をする。
これらも、もしかすると日本人ならではの特性?などと考えてみたりする。
日本人に限らないような気もするけれど…。
 
 
「自分の音を聴いて」—そう、よく注意されたものだ。
今では、同じことを生徒さんたちに言っている。
 
ヴァイオリンを弾いているのに、
「自分の音を聴け」なんて言われるのは、
考えてみれば、相当、恥ずかしいことだ。でも、
聞こえていても、ちゃんと聴けていないことは未だにある。
聴いているつもりで、聴き逃していることも少なくない。
 
指が動いていれば、ヴィブラートを掛けた気になるし、
弓が弾んでいれば、スピッカートをした気になる。
現実に音がどうなっているかは二の次。
 
人間の耳はすごい。
聞きたいものを取り出して聴くことができる。「ボク、結構弾けてる?」
聞きたくないものは聴かない。「今日の私、最高!」
耳に入った音を理想の音とすり替えてしまう。「俺、上手いじゃん☆」
 
音が中膨らみになっていても、気付かない。
弓の返しでアクセントが付いていても、気付かない。
ロングトーンで音がぶれたり掠れたりしても、気付かない。
移弦で鳴ってはいけない弦の音がしていても、気付かない。
音程が外れていても、音が汚くても、ぜ〜んぜん平気。
 
ピアノなら小さく、フォルテなら大きく、
スタッカートは止めて、スピッカートは跳ばして、
書いてある通りに弾いていれば、それでOK。
 
そうかと思えば、小さなミスばっかり気になって、
トータルどういう演奏をしたかを聴くことができないこともある。
積み重なる自身への過小評価は、自信喪失の引き金になる。
 
能天気な耳も困るし、ネガティブな耳も問題だ。
 
『聴く』…難しい。
 
 
誰からも好意的に受け止められたクライスラーと違い、
ハイフェッツは讃辞の言葉と同じ位、多くの非難も受けている。
「演奏が無機的」であるとか、「驕慢さを秘めた超絶技巧」であるとか。
彼が自身について語ることをしなかった故に、性格についても言及される。
曰く「厳格で融通が利かない」「自分に厳しく他人にも厳しい」「原理原則に非常に
こだわる」「非社交的」…エピソードを読む限り、その傾向はあるけれど。
 
クライスラーは世間の批判や非難を、笑顔で受け止めた。
ハイフェッツはそれを、強い信念と完璧に統御された技術で跳ね返した。
 
DVDはハイフェッツの人生も追っている。
ヴァイオリニスト的アメリカンドリームな日常生活—海を眺め、スポーツに興じ、生
徒や友人たちと談笑する。
その姿は、それが嫌味にすら感じるほど、笑顔と幸福に満ちている。
ただ、それが本物かどうかは正直分からない。彼もまた、
クライスラーと同じような辛い経験をしていることを、少しだけ知っているから。
 
一方、彼のレッスン風景は、見ているだけで胃が痛くなる。
楽曲を演奏する前に投げ掛けられる幾つかの質問、加えて、
「○調のオクターヴのスケール弾いて」「○調の三度のスケール弾いて」
大学時代の試験を思い出させるような、スケール責め。ううぅ。
レッスン中に笑顔はない。厳しい表情のままだ。
でも、レッスンが終わった瞬間、ふと見せる彼の笑顔はひどく優しい。
 
早くに世間に認められた彼には、成功に慢心した時期もあったという。
本人が語る。「自分の楽しみを味わうことがアメリカに来た目的の一つだった」
練習を怠る。元々が完璧な状態なのだ。僅かな綻びも聴き手に届いてしまう。
酷評された彼は、それを真摯に受け止めた。—「彼は私の急所を突く真実を書いた。
私は真剣に練習を始めた。私は若気の放縦を引き締めた」
だからこその厳しさなのだろうと、思い直すのである。
 
ある書にはこうある。
「ハイフェッツの演奏は聴いて楽しいものばかりではない。むしろ“疲れ”をもたら
す場合の方が多い」
聴き手を疲れさせるものを音楽と言えるのか?
その演奏に打ちのめされたヴァイオリン弾きは、
不遜にも考える。ヴァイオリニストとは?
 
「人々にとって、ハイフェッツはザ・ヴァイオリニストである。多分、クライスラー
の方がもっと魅力的であろう。知的にはシゲティが勝る。エルマンの方がもっと美し
い音だろう。音楽家としてはフーベルマンはもっと偉大だった。そんなことはあまり
関係ない。ハイフェッツは基準を残した」〜ハロルド・ショーンバーグ
 
「演奏行為そのものが芸術」と言われた。
彼は好き嫌いを越えたところにいる。それだけは分かる。
ヴァイオリニストが到達したい地点で、彼は待っていてくれる。
 
「海の音は絶え間なく変わっていく。私は自然のすべての音が好きだ。ここ(マリ
ブ・ビーチ)に座ると、私は考えることができる」〜ハイフェッツ
 
もう一度、DVDを見よう。
聴こえるだろうか。彼の聴いた海の音が。

 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第98回遠く波の音が聞こえる

© 2014 by アッコルド出版