誰しもがそうではないのだろうけれど、
“職業病”かなぁなんて思うものがあって、例えば、
 
買い物に興じていても、BGMでヴァイオリンの音が聞こえてくれば、
気付くと品物片手に立ち止り、一瞬、耳だけになってしまっていたり、
 
テレビドラマや映画で、ヴァイオリンの出てくるシーンがあれば、
その内容や俳優さんの演奏姿が気になってしまったり、
 
心惹かれるヴァイオリン向きのメロディーが流れてくれば、
無意識に、頭の五線紙に楽譜を書き起こしていたり、
 
イライラしているときには、耳が尖がって、
心地よい自然音ですら、音名付き凶器となって襲ってきたり、
 
ヴァイオリンのコンサートを聴きに行けば、
頭はじくじく筋肉ぴくぴく、終われば全身疲労でヘロヘロになっていたり、
 
ときどき、こんなことでいいのかと、
こんな狭量な感覚で音楽をやっていていいのかと自戒するが、
症状の軽減は見られても、未だに完治する気配はない。
 
友人が聞く―「疲れませんか?」…疲れることもある。
なので、他ジャンルの音楽を聞いたり。
関係のない映画やドラマを見たり。
本を読んだり。
 
本を読んでいるときには、それが音楽書でもない限り、
鬱陶しい“職業病”が出ることはあまりない。
心身ともに、ホッとする時間。
…なのだが。
 
 
読み始めた瞬間から、“ヴァイオリン”が頭に浮かんで離れない。
しかも、そのイメージを占有するのは、“音”ではなく、
ただただ、ヴァイオリニストの華麗な“腕の動き”、
そんな本に、最近、出会った。
 
リチャード・バック作、『かもめのジョナサン』。
1970年にアメリカで、日本では1974年に出版された(五木寛之訳)書籍。
初めてこの本を読んだときの、不思議な読後感を今でも覚えている。
勝手な解釈で、『星の王子さま』と同じ棚に入れ、
「大きくなったら、もう一度読もう」―そう思ったのも覚えている。
 
2014年2月、作者自らが封印していた、そして、
作者自らが公表を決めた第4部を含めた完全版が発表された。
今、手元にあるのは、その完全版書籍だ。(五木寛之創訳 新潮社)
四十年を経て、ようやく再読を果たすことができた。
 
これは、カモメが空を飛ぶ話。
生きるために飛ぶのではなく、飛ぶために生きるカモメの。
食事することさえ忘れ、“飛ぶ”ことを極めようとするジョナサン。
 
読み始めて、すぐ、この文に行き当たる。
「空中約30メートルの高さで、彼は水かきのついた両脚を下におろす。
そして、くちばしを持ち上げ、両方の翼をひねるようにぎゅっとねじ
曲げた無理なつらい姿勢を、懸命にたもとうとする。翼のカーヴがき
つければきついほど低速で飛べるのだ。そして、いまや彼は、頬をな
でる風の音が囁くように低くなり、脚もとで海面が静止したかと見え
るぎりぎりのところまでスピードを殺してゆく。極度の集中力を発揮
して目をほそめ、息を凝らし、強引に……あと……ほんの数センチだ
け……翼のカーヴを増そうとする。その瞬間、羽毛が逆立ち、彼は失
速して墜落した。」
 
右手がムズムズする。勝手に置換が行なわれる。
 
弓を持ち、翼の長さとなった右手が、
美しく、しなやかに、空を切り、弦上に戻ってくる。
弾き切りは上手くいったのだ…前の音は完璧だった。
後は、無事に着地して、次の音を出せばよい。
振動を終えた弦が、静かに弓の到来を待っている。
集中する。弦に接するそのときまで、腕の勢いを殺してはならない。
弦に触れる瞬間のコントロールが大事なのだ。
あと……数ミリ……思わず指が緊張する……そして。
 
 
レイ・ブラッドベリは、この作品のことを、
「読む者がそれぞれに神秘的原理を読み取ることのできる偉大なロールシャッハテストだ」と語ったと言う。
 
自身が何を読み取っているのか、正直、分からないのだが、
リチャード・バックの魔の手に落ちてしまったことは間違いない。
 
より速く飛ぶために危険な練習を重ねるジョナサンの姿に、つい、
自身に鞭打ち弾き続ける、ヴァイオリン弾きの姿を重ねてしまう。
 
手に入れた“技術”によって、ジョナサンは、
仲間から異端視され、追放されることとなる。
しかし、物語はそこでは終わらない。
より高次の世界へと導かれたジョナサンは、更なる高みを目指す。
 
終には『瞬間移動』まで手に入れようとする彼に、長老チャンは助言する。
「自分のことを、限られた能力しかもたぬ肉体の中にとじこめられている哀れな存在と考えるのをやめろ」
「肉体に心をとらわれるな」と。そして、師の最期の言葉は。
「もっと他人を愛することを学ぶことだ。よいか」
 
往年の名ヴァイオリニスト達が、同じようなことを言っていなかったか?
 
生きるために、弾くのか。弾くために、生きるのか。
職業演奏家なのか、芸術家なのか。プロなのか、アマなのか。
ヴァイオリンを持てばそんなことは、どうでもよくなってくる。
 
より高く。より速く。
その思いが、すべてを押し上げるのだと。
 
「限られた方式に従って行なう日々の勉強に束縛されるのではなく、向上を求めてやまない態度を作り出すように努めてきた」~ヨーゼフ・シゲティ
 
ときに、手段が目標にすり替わってしまうこともあるけれど、
総じてヴァイオリン弾きは、向上を求めてやまない性質を持っている。
 
 
意識を失うまでの、厳しく激しい練習で受ける痛み。
文字を追っていると、その痛みまでもが身体に再現される。…痛み?
 
ふと、少し前に見た、現実のシーンを思い出す。
「プロの人も、肩がこったり、身体を壊したりするんだって」
「そうかあ。じゃあ、私達がそうなるのは仕方ないね」
謙虚なアマチュア・ヴァイオリン弾き達の会話。
 
優雅にも見えるヴァイオリンの演奏は、
少なからず、過酷な練習の上に生まれる。
その過程で、痛みを覚えた人は少なくないだろう。だが、
「身体が資本」と知る演奏家は、決して無理はしない。
身体を壊しては、元も子もない。
 
プロが身体を痛めるときは、大抵、長時間労働が原因だ。元々、
演奏姿勢が不自然であるから、稼働限界時間は他の仕事よりは短い。
たまに、個性的な姿勢ゆえ身体を痛めてしまう奏者もいるが、これは少数派だ。
 
かの『肩こり女子』たちの痛みの原因は、時間によるものだけではない。
問題のある演奏姿勢や、不自然な身体の動かし方、力み、
…それらが原因であると知っている。
「仕方がない」ことではない。「仕方がない」ですませてはいけない。
 
その差は、見れば分かる。
どんなに癖があっても、どんなに無骨に見えても、
正しく身体を使えている奏者は、動きが自然で流麗だ。
特に、腕の動きが。
 
フィギュアスケートのトップ・プレーヤーが、その指導で、
表現に豊かさを持たせるためには、腕の動きが重要なファクターだと、
その動きは、腕だけを使うのではなく、
肩から行なうべきだと、そう教えているのを見た。
手本を示す彼の腕は長く、身体も大きく見え、
動きはたっぷりとしていて、実に美しかった。
 
それは多分、いや間違いなく、ヴァイオリンも同じだ。
 
 
かつては体を支えていた肩甲骨(英shoulder blade、羅scapula)、
前肢を自由に動かしたいと願った霊長類は、
哺乳類時代には側面に移っていた肩甲骨を、更に背中に移動させた。
 
肩甲骨は、肩鎖関節という小さな関節を介してのみ胴と繋がっている。
宙に浮いたような状態にあるから、その動きの自由度は非常に高い。
肩をすくめたり、上げ下ろしをしたり、引き寄せたり、
前に出したり後ろに引いたり、回転させたり、背中に手を回したり。
(=「挙上、下制、内転、外転、上方回旋、下方回旋」)
 
腕の可動域を広げる肩甲骨。…ボウイングとの関連を考える。
右手を大きく動かし、より大胆に、よりダイナミックに演奏するためには、
肩甲骨を腕の一部=付け根と考え、そこから動かすとよいということにならないか。
 
いや、ダイナミックな動き以前の問題かもしれない。
得てして、肩こりを訴える人は、肩を使えていないことが多い。
 
ヴァイオリンは、腕だけで演奏することもできなくはない。
(動きは小さくなり、伸びやかさに欠けることとなるが…。)
逆に言えば、腕だけで弾いているときには、本来使うべき、
肩甲骨周りにある筋肉の一部を「固めて」弾いていることになる。
それが長時間続けば…。肩こりにもなっても仕方がない。
 
「肩を使え」―そう注意された人も少なくないはずだ。
 
ちなみに、健康&スポーツ関連の文献で見る肩甲骨情報には、
 ○肩甲骨の「ゼロ・ポジション」を知ること
 ○肩甲骨を「正しく動かす」こと
といった内容を、よく見掛ける。そうすれば、
姿勢がよくなり、肩こりが和らぎ、呼吸の質が上がると。
(ダイエットの助けにもなるらしい!)
 
ちなみに、“ゼロ・ポジション”(別名“ハンモック・ポジション”)とは、
両手を頭の後ろで組むときにできる、肩甲骨のポジション。
「肩甲骨の棘突起と上腕骨の長軸が一致し、肩周辺の筋収縮力が均等になるポジショニング」
これが、肩に余分な力が入らず、肩が長時間疲れずいられる姿勢だと。
 
演奏時に“ゼロ・ポジション”を保つことは難しい。
特に、身体の小さい人、腕の短い人は。
でも、弾き始める前や、楽器を下ろしたとき、
もちろん、弾いているとき、腕の動きを考えるとき、
これを意識すると、その効果は絶大だ。
 

肩から弾く。全身で弾く。

 
 
「君たちの全身は、翼の端から端まで、それは目に見える形をとった、きみたちの思考そのものにすぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる…」
 
作者の下で眠っていた、『かもめのジョナサン』幻の第4章は、
ジョナサンが去り、彼が偶像化・神聖化された世界で始まる。
誰も飛行の追及をすることなく、ただ教理を唱え、ただ儀式を行なう。
飛行の精神の形骸化…。
 
形骸化は、音楽の世界でも、ヴァイオリンの世界でも、
群においても、個においても、起きる、起き得ること。
 
技術の向こうにあるもの。
誰もが、ジョナサンになれる訳ではないが、
必ず、きっと、“向こう”には行けるはずだ。
“向こう”? それは向こうにあるのか? それとも“内”に? 
 
「私にとって音楽とは愛、感動、エネルギーであって、それ以上のものではない。いったい音楽にそれ以上の何を望むのだろうか? われわれは心の中に音楽を持っている」~S.アッカルド
 
「空間を克服したあかつきには、われわれにとって残るのはここだけだ。そしてもし時間を征服したとすれば、われわれの前にあるのはいまだけだ」
ジョナサンの言う、“ここ”と“いま”を想う。
 
「飛ぶことの歓び」
ヴァイオリン弾きは、“目覚めたカモメ”と同じ力を持っている。
 
「ああ、楽しく飛んでいただけだよ」
 
そんな風に言ってみたい。
レッドブルでも飲んでみるか。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第80回 肩甲骨は翼の名残り

© 2014 by アッコルド出版