『ベルサイユのばら』(1972-1973)が40周年を迎えたらしい。
当時は、どちらかというと、竹宮恵子&萩尾望都派で、
意味も分からず反主流派を謳い、少年漫画寄りの読書傾向もあり、
「『ベルばら』なんて」と変な格好付けをしていた学生時代だったが、
実はしっかり読んでいた。読んでない振りをして。
 
周年記念イベントには、「親子でファン」という人達の来場も多いという。
随分と時が経ったものだ。しみじみしてしまうが、
『セーラームーン』世代が親になっているのだ。嘆息も今更か。
 
我々50代は、「元祖漫画世代」「漫画第一世代」などと言われているらしい。
上の世代の方たちには、眉を顰められてしまうかもしれないが、
未だに、面白そうな漫画やアニメがあると気を引かれてしまう。まあ、
官たる文化庁が主催している芸術祭にマンガ部門が設けられている位だから、
大きい顔をして読んでいればいいのかな。
 
それにしても、1970年代(連載開始)の漫画たるや。
『ガラスの仮面』(美内すずえ)『王家の紋章』(細川智栄子)、
『三国志』(横山光輝)『BLACKJACK』(手塚治虫)『はだしのゲン』(中沢啓治)
『銀河鉄道999』(松本零士)『デビルマン』(永井豪) 『漂流教室』(楳図かずお)
『キャプテン』(ちばあきお)『ドカベン』(水島新司)『エースをねらえ!』(山本鈴美香)
まさに、名作揃いだ。(書き切れない…。偏り、許されよ。)
このレベルがその後も継続されるのだから、日本漫画界はすごい。
 
 
「1970年代」と聞くと、“サザンオールスターズ”が頭に浮かぶ。
『勝手にシンドバッド』…デビュー時の映像の記憶が鮮明に残っている。
特に熱心なファンでもないのに、そこまで覚えているのには理由がある。
彼らのデビューにあたって、どこかの誰かが語っていた言葉が印象的だったのだ。
 
「テンポが速過ぎるし、言葉を詰め込み過ぎている。
 歌詞が聞き取れないようなものは“歌”ではない」
 
確かに、忙しい曲だと思った。
何を言っているのか分からない、とも。
能天気な10代だったから、それが問題だなどとは考えもしなかったけれど。
 
アップテンポな曲がそこかしこで聞かれる昨今、
改めて『勝手にシンドバッド』を聞くと、あれ?と思う。
全然、速いと思わない。言葉もしっかり捕まえることができる。
聞き慣れた? どうもそれだけではないような…。
 
クラシック業界では、“ピッチ”の変遷が語られることがある。
標準ピッチが定まるまでのピッチについては、あまりにも、
考慮すべき点が多過ぎて、簡単に語れるものではないが、
少なくとも、自身、A=440Hz→442Hzの時代を生きている。
 
“ピッチ”を、何となく不変のものだと思ってもいたから、
「A=442ね」なんて言われ始めたときは、え?と思ったものだ。
A=440Hz時代、それを「低め」だなどと感じたこともなかったし、
そのピッチに何の疑問も、何の不満もなかった。(今でも、低い方が好きだ)
 
なぜ,変えるんだろう? そうすると、どうなるんだろう?
一応、頭に浮かんだ疑問も、いつしか脳から零れ落ち、
ただ仰せのままに日々を過ごしてきた。…人は慣れる。
納得する・しないに関係なく。好き嫌いすら、さておいて。
 
近年、40年前に似た感覚を体験した。“ボカロ”である。
はじめて、その『高速歌唱』の楽曲を聞いたときの驚き。
速い! 歌詞が聞き取れない! 「歌えないようなものは“歌”ではない」?
(もちろん、そこにボカロの第一義がある訳ではないので念のため)
 
―VOCALOID=YAMAHAが開発した音声合成技術及びその応用製品の総称。
 現在この用語はもう少し広義で使われている
 
『超高速歌唱』の楽曲に至っては、聞き取れる聞き取れない以前の問題、
それはもはや言葉として認知できず、我が耳には単なる電子音にしか聞こえない。
(いずれ、聞き取れるようになったりして。人間の進化、侮れず。)
さすがに、「これは『ボカロ』か」と異議を唱えるボカロファンもいるとか。
 
どこの世界でも、行き着くところは同じ?
より高く? より速く? 
限界の扉をこじ開けているのは、ウサイン・ボルトだけではないらしい。
 
 
自身の身体はもちろんのこと、
道具を与えられれば、その道具にしかできないことを、
探求せずにはいられないのが人だとして、では、受け入れる側は?
 
時代による変遷。
主流―それが世界共通の傾向ならば、耳においてもまた、
欲するものが、いや“耳”そのものが変わってきているのだろうか。
 
1981年録音のグールドの《ゴルトベルク変奏曲》を、
初めて耳にしたときの衝撃が忘れられない。
彼の演奏の音楽界における、ピアノ界における、バッハ演奏における位置付け、
そういった難しいことは分からない。でも…。
 
―グレン・グールド(Glenn Herbert Gould 1932-1982) カナダのピアニスト。
 「異才」「鬼才」の冠と共に、デビュー以来、聴衆を圧倒し続けた。
―ゴルトベルク変奏曲 Goldberg-Variationen(BWV 988)
 J.S.バッハによるアリアとその変奏曲からなる2段手鍵盤のチェンバロのための練習曲 
 ドレスデンの廷臣カイザーリンク伯爵のお抱えだったクラヴィア奏者ゴルトベルクに由来。
 バッハが音楽を手ほどきしたゴルトベルクが、不眠症に悩む伯爵のために
 この曲を演奏したという逸話から「ゴルトベルク変奏曲」の俗称で知られる。
 
録音冒頭〈Aria〉の第一音を聴いた、その瞬間に、
自分の中の、核に近い部分にあった何かが、
確たるものとしてあった何かが、ガラガラと崩れていくのを感じた。
思えば、それは恐怖に近い感覚だったかもしれない。
 
それを呼び起こしたであろう原因は幾つかあるが、
(そう、今は冷静に自身を分析できる。ここに至るのに随分時間が掛かった。)
その一つが“テンポ”だ。
 
ひとつひとつの音が何か意味を持って、じんわり身体に沁み込んでくる、
音と音との間にある時間・空間が、ふんわりと心を包んでくれる、
そんな、「速さ」。
 
高い理想、先の見えぬ不安、いろいろなものに追われ、
あれもこれもと欲張り、強くあらんと何事も声高に主張し、
シャカシャカ弾き散らかしながら、乱暴に生きていた若輩者。
諭されている気がしたのだ。
その“音”に。“時間”に。“空間”に。
「それでいいのか?」と。
 
 
楽曲には「適切な速度」があるのだと学び、そう信じていた。
そのことは、決して間違ってはいないはずだ。
 
でも、グールドの演奏を聴いたとき、思ったのだ。
自分は何に依って、それを「適切な速度」と判断していたのだろう?と。
速度について考えたことが、自身で深く考えたことがあったか? ― 否
 
初心に帰って、楽典を開く。
「曲の速さ(tempo)を楽語で示すのを速度標語といい、数字で示すのを速度記号と云います。
 テンポは曲の根幹を成すもので、演奏者にとってテンポの設定は非常に重要なものです。」
うんうん。ここまでは問題ない。考えるべきは、ここからだ。
 
「作曲者によるテンポの指定がなければ、演奏者の感性や解釈によっていろいろに設定できますが、
 楽曲のほとんどは、その性格や内容を表現するのに最もふさわしい固有の速さや雰囲気を持っています。」
 
かのギーゼキングが、バッハの演奏についてこう書いている。
「バッハはロマン派の作曲家ではない。どんなに情趣に富んだ音楽をつくっているにしても、そうではない。つまり、ある種の表現手段は当時まだ考案されておらず、したがってバッハの音楽に取り入れられているはずはないのである。だからテンポにおいても、いっさいの極端さは、ことにゆっくりすぎるのは避けなくてはならない。古い鍵盤楽器の、短い、持続能力に乏しい音を、考えに入れなくてはならない。そして単純自然な速度を選ぶことが大事である」
 
―Walter Wilhelm Gieseking(1895-1956)フランス生まれのドイツ人ピアニスト。
 透明感のある音色と完璧なテクニックにより、20世紀前半のピアノ・ヴィルトゥオーゾの一人に数えられている。
 
先人たちが、多くの努力の末に、自身で導き出した言葉、
その言葉を深く理解しようともせず、ただ丸呑みしていなかったか。
 
改めて、手持ちの《ゴルトベルク変奏曲》の音源を幾つか聴き直してみれば、
同じような速さの演奏が全くない訳ではない。でも、同じには聴こえない。
 
たまに出会う。
実質、テンポはそれほどでもないのに、
『超』高速に聞こえる、ヴィルトウオーゾ達の超絶技巧。
実質、テンポはそれほどではないのに、
『とても』ゆったり聞こえる、偉大な演奏家たちの緩徐楽章。
 
音色や音の並べ方、フレージング、構成、そういったものによって、
テンポが同じでも速く聞こえたり遅く聞こえたりすることもある、という事実。
 
 
異様に低い椅子に座り、猫背でピアノを弾く49歳のグールドは、
誰のことも意識していないように見える。
誰かに聴かせているのではない。自分の耳が欲するままに弾いているだけ。
聴き手は、勝手に彼の世界に取り込まれているだけなのだ。
 
演奏家の自由、ということを考える。
職業演奏家であれば、聴き手を意識せずにはいられない。
どう弾きたいか、ではなく、どう聴こえるか。
それは両立しそうでもあるし、両立しそうにもない。
 
小学生の時の、写生大会のことを思い出した。
初めての経験で、少し緊張している私を、
「見えたままに描けばいいのよ」と、母は送り出してくれた。
 
出先で目にした巨大な二基のガスタンクに圧倒され、感動のまま、
それを描いて提出すると、そこそこの出来だったらしい、
美術の先生に「公募展に出す」と言われた。嬉しかった。
 
快晴の空の下、ガスタンクは威容を誇っていた。輝いて見えた。
ガスタンクの色=緑が、空をも染めているように見えた。
だから、空を緑で塗った。先生は言った。
「空が緑色なんてことはないから青に塗り直して。そうしたら出品するから」
納得できないまま、青に塗り直し出品。賞をもらった。全然、嬉しくなかった。
そのとき心に刺さった極小の鋭い棘は、今でもこうして残っている。
 
『既読』が出てすぐに返信がなければ、ついイライラしてしまう、
わずか2分後の次の電車が待てず、駆け込み乗車をしてしまう、
そんな時代にあって、グールドのアリアなど、
まだるっこしくて聞いていられないという人もいるだろう。
 
でも、特に若いヴァイオリニスト達には、感じるままに、思うままに、
それが、自分にとっての「自然な速度」ならそのままに、心置きなく弾いてほしい、
そこに、多少の若さ故の思い込みや傲慢さがあったとしても…なんて、
長年、自らの縛りから抜け出せなかったヴァイオリン弾きは呟いてみる。
 
それにしても、映像のグールドは、
見ようによっては50代にも60代にも見える。
翌年、脳卒中を起こした彼は、50歳で生涯を終えてしまった。
速く時間を駆け抜けたのは誰でもない、グールドだったのだ。
 
 
 
*楽典出典:“演奏のための楽典” 菊池有恒著 音楽之友社 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

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