ブラームス・ザールのロビーは、なんともノンビリした空気が満ちている。

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楽友協会ホールから数百メートル、コンツェルトハウス並びのヴィーン芸術大学演劇部校舎。戦後はここに音楽部も一緒にあった。奥がコンツェルトハウス。

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この窓のどこかの奥で、若き岸邉はピヒラーやバイエルレと手探りで室内楽を始める。ここもまた、「この地から若者達が弦楽四重奏として旅立っていった」聖地である。

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レッジョ・エミリアの1週間、10団体の若者達の弦楽四重奏を聴き続けたあと、ミラノからアルプスを越え、ヴィーンに立ち寄った。
 
若きモーツァルトが、何年もかけて動いた地域である。そこをたった数日で駆け抜けてしまうことに、空しさを覚えなくもない。だが、それが21世紀を生きることだと割り切り、受け入れるしかなかろう。
 
なにせ今この瞬間にしたところで、タミーノの故郷たる遥か東の果ての島国に向け、辻馬車の100倍の速さでシベリア上空を横切っている真っ最中なのだから。
 
昨晩、ヴィーン楽友協会ホールのブラームス・ザールで、キュッヒルQが演奏するハイドンを聴いた。筆者を追いかけるように数日後に同じ道を辿り、東京はサントリーホールにやってくる楽人達である。若者達が奏でた音楽とはまるで異なるものが、そこにあった。
 
フレーズの頭がきっちり揃うことになどに、さして意味などない。それよりも、バスラインを含め全体が大きな長いひとつのフレーズでありながらも、アーティキュレーションは明快。テーマ毎に細かくテンポや音色を変化させ作り込むような手間暇はかけていないのに、今がどこで何をしているのか音楽の構造はとても良く判る。
 
勿論《騎士》終楽章など、第1ヴァイオリンの聴かせどころでは、ヴィーンフィルの首席コンサートマスターはごく当たり前のようにハイピッチをきっちり決めてくる。老獪としか言いようのない再現。でも、そんな言葉につきまとういやらしさはなく、どこかノンビリした音楽。
 
これが「ヴィーンの室内楽」なのかしら。それは、今週後半からブルーローズでご自身キュッヒルQを聴き、感じていただくべきことだろう。尤も、チケットを手に入れられた幸運な数百人に限られるのが残念なのだが。
 
とはいえせっかくの初夏の祭りだ。文字通りヴィーンから押っ取り刀で駆けつける筆者としても、「ヴィーンの室内楽」についてある程度の整理をし、読者諸氏のお手伝いくらいにはなりたい。
 
今回からサントリーホール・チェンバーミュージック・ガーデンが終わる日曜日までの3週末、「ヴィーンで室内楽をすること」と題し、この街での室内楽の在り方を簡単に俯瞰してみよう。
 
過去の日本の歴史でクラシック音楽の人気が最も盛り上がっていた戦後から1960年頃まで、初期LPでヴィーンの室内楽団が盛んに聴かれていた。
 
盤に刻まれた音に拠る評価に関しては、幸松肇氏の『世界の弦楽四重奏団とそのレコード ドイツ・オーストリア編』(アートユニオンクラシック音楽事業部 2007)という日本語での労作がある。
 
今回はそれとは重ならぬ部分、日本では遥か彼方の夢と憧れの世界だった「音楽の都」でのライヴ活動の在り方を、現地で目の当たりにしていたヴァイオリニスト岸邉百百雄の証言で紹介させていただこう。
 
来月初めにはやっと世に出そうな拙著『ゆふいんの風』(木星舎)のために2日間のロング・インタヴューの中で語られながらも、直接は使わなかった言葉たちである。
 
 
ヴィーンの室内楽には、いくつかの断絶がある。シュパンツィック時代からの議論はよそう。当稿で問題になる大きな断絶は、1940年代。ナチスのオーストリア併合である。
 
20世紀前半の大戦間時代、帝国から共和国になったオーストリアの首都ヴィーンでは、室内楽も盛り上がった。現在の我々がそれと認識する所謂「音楽の都」が創られた時代である。
 
オーストリア共和国の第三帝国化に拠り、大戦間の室内楽を支えた音楽家の多くはこの地を去り、新大陸などに移らざるを得なかった。演奏史上で「パラダイスへの追放」と呼ばれる、20世紀後半のアメリカ合衆国クラシック音楽勃興の直接のきっかけとなる出来事である。
 
晩年に日本でマスタークラスを開催した元アマデウスQの第1ヴァイオリン奏者ノーバート・ブレイニンも、レッスンが全て終わり、寛いで気楽になり本音が漏れる状況になったとき、何度か筆者にこんな言葉を漏らしていたものだった。
 
「ヒトラーが来なかったら、私がヴィーンフィルのコンサートマスターで、ジギー(注:アマデウスQ第2ヴァイオリン奏者ジークムント・ニッセル氏)が第2ヴァイオリンの頭だった筈さ。あの頃、ヴィーンに残ったような連中ときたら…」
 
逃げだし、命を永らえた者からすれば、敗戦直後のヴィーンは「そして誰も居なくなった」場所だったのである。
 
桐朋学園で学び、オーストリアが四国共同統治を終えて独立する直前の7月にポーランドでのコンクール参加のために初夏のこの街に立ち寄ったヴァイオリニスト岸邉百百雄は、音楽よりもその空気に惹かれ、師匠齋藤秀雄の反対を振り切ってヴィーンに留学をすることになる。1958年のことだった。
 
「ヴィーンというのはソリストを育てるところじゃないですよね。今でも。あそこは室内楽であり、オーケストラですよ。街の人もそういう人が多いですから。規模もコンパクトですし、街の雰囲気が僕には良かったんでしょうねぇ。ええ、今の雰囲気とは違いましたから。音楽は関係ないんです、街に惚れて行った(笑)。6年いました。」(岸邉百百雄)
 
日本人の留学生など殆どおらず、ヴァイオリンの先輩には服部豊子などが居るだけ。留学後期でも、日本人社会は100人に満たなかったという。
 
「僕は恐らく日本人のヴァイオリンでは5人目です。最初は、モラヴィッツというヴィーンフィルのヴィオラの首席でバリリQのヴィオラ奏者についた。でもなんかちょっと語り口が合わなくてね。練習もいかずにフラフラしてた(笑)。
 
そんなことしてたら、それじゃダメだとドイツ人の友達が連れて行ってくれたのが、フランツ・サモヒルさんなんですよ。僕は日本人の第1号でしたから、凄く良くしてくれてね。その後は、ヴィーンにいった日本のヴァイオリニストは、みんなサモヒルですよね(笑)。」(岸邉)
 
コンツェルトハウスの隣、現在はヴィーン芸術大学の演劇部が入っている旧校舎で、岸邉は同級の仲間らと共に室内楽を手探りで始めた(コンツェルトハウスでは、ニコラス・アルノンクールがヴィーン響の後ろの方に坐り、つまらなそうにチェロを弾いていたという)。
 
誰も教えてくれる人などいなかった。ハット・バイエルレが言い出しっぺになり、ギュンター・ピヒラー、クラウス・メッツェルら、同級生が集まり、手上がり次第に当時注目を浴び始めていたバロック作品から古典派作品を、手探りで弾き始めた。やがてヴィーナー・ゾリステンとなるこの合奏で、岸邉は室内楽の在り方を身に付けていく。
 
「バリリさんの全盛時代は凄くしっかりしていたと思うんです。でも、僕が行った頃はもうダメ。それからボスコフスキーが来た。室内楽はニーズが高かったから、演奏会も凄くありましたけど、まあ割合とアバウトだった(笑)。
 
アントン・カンパーさんのコンツェルトハウスQを聴きに、モーツァルト・ザール(注:コンツェルトハウス小ホール)によく行きました。ボスコフスキーも、ローカルな演奏としてノンビリやってて味はあったけど、インターナショナルって意味ではねぇ。ジュリアードQなんか来たら、上手すぎて腰抜かしましたよ。
 
でも僕は、もうその頃はヴィーンにかぶれてたから、確かに巧いとは思ったけど、巧いで済んでいた(笑)。」(岸邉)
 
現在もキュッヒルQが定期演奏会を開催する楽友協会のブラームス・ザールや、大学隣のモーツァルト・ザールでは、日本の音楽ファンが必至にLPを聴いて涙した「本場ヴィーン」の音楽家達が、室内楽を繰り広げていた。
 
「コンツェルトハウスQを初めて聴いたとき、たまげましたよ。本番ですよ、ラズモフスキー第2番の1楽章やって、繰り返しのところで譜めくりがあるんですよ。そしたらね、みんながそこまで弾いたら、ヨイショって楽器下ろしちゃったんですよね。それでこうやってページをめくって、そこからまた先に行った(笑)。おおおおお、と思ったですね。
 
でも皆、室内楽はそんなもんだと思ってる。家庭でやってるのと同じ。譜面が見えなければ弾けないし、捲れないなら仕方ないじゃないか、ってね(笑)。僕はね、ホントにヴィーン的ってのは、良くも悪くも、ああいうものだと思うんです。今やったらトンでもないけど。僕はビックリしたけど、それが当たり前なんで、誰も何も言わない。」(岸邉)
 
 
岸邉が留学する頃、復活した国立歌劇場は音楽監督カラヤンの下、きら星の如き歌手を揃え、黄金時代を迎えつつあった。客観的に見れば、室内楽の時代は終わりつつあったのかもしれない。
 
1964年、オリンピックを前に、岸邉は帰国を決意する。
 
「多分、どんどんアジア人が入り出したのは1960年代の、僕が帰ってきた直後くらいです。紙一重でしたよ。当時は共産圏が亡命以外に出られなかったでしょ、だからメンバーの数が足りなくて、どんどんアジア人も入れましたよね。そうなる前でした。あと2年くらい遅かったら、僕も向こうに居着いていたでしょうね。僕より3年くらい後に行った奴らは、みんな向こうにいますよ。」(岸邉)
 
ヴィーンとリンツの間、ヴァイドホーフェン・アン・デア・イプス出身の天才少年ライナー・キュッヒルは、岸邉が日本に去るのと入れ替わるように、鳴り物入りでヴィーンに昇って来る。
 
この頃から、ピヒラーらは弦楽四重奏に専念する決意を固めつつあった。日本の音楽愛好家達が憧れたコンツェルトハウスQやバリリQはヴィーンの室内楽シーンから姿を消し始めていた。ヴィーンで、確実に時代が変わり始めていたときである。
 
14歳の天才ヴァイオリン少年がやってきたのは、そんな場所だった。ライナー・キュッヒルという音楽家は、音楽の都にやってきた瞬間から、ヴィーン室内楽の体制内改革者たるべく運命づけられていたのである。

2014年6月5日、来日を前にヴィーン楽友協会ブラームス・ザールで定期演奏会を行なうキュッヒルQ。

第49回

ヴィーンで室内楽をするということ

その1:戦後から

電網庵からの眺望

音楽ジャーナリスト渡辺 和

© 2014 by アッコルド出版