今日のグルーヴ〈476〉
ネットの隆盛とともにマスメディアへの信用もかなり落ちてきているが、そもそも、メディアを無闇に信用すること自体が間違っている。
メディアの情報と言っても、人間が携わっているものである。フェイクニュースは論外だが、ちゃんと取材したり、裏付けをとったりすれば良い方だが、それすら、記者のフィルターがかかっているし、誤解して取材するということもあり得る。
メディアの端くれにいた者として思うのは、事実を100パーセント伝えることは不可能である、ということである。
例えば、情報の現場にいたとしても、物事には様々な側面があるから、人によって捉え方が異なるのである。事実を100パーセント知っている人は、お天道様くらいしかいないのである。
というわけで、私はインタヴュー記事に関しては、対象は、ほとんどが演奏家や音楽家、先生であったが、できるだけご本人が言いたいことをそのまま伝えるようにした。そしてできるだけ原稿をご本人に確認してもらうようにした。
ゆえに、s私の記事は長い、とよく言われたものである。
ただし、中には私の原稿を下書きにして、原稿を作り直してくる方もいて、インタヴュー記事というより、ご本人の記事になってしまうことがあったので、そういう場合は、まれにボツになった場合もある。
だんだん思い出してきたが、原稿の直しを〆切りぎりぎりどころか、過ぎてまで直しを言ってくる人もいた。さらに凄いのは、もうすでに刷り始めたものに関しても、断固として直しを要求してくる人もいた。
この点に関しても、私は紙媒体の限界というものを感じる。そもそも、印刷物に完全というものはない。定期刊行物で誤植をゼロにすることは奇跡に近いし、文章そのものに間違いや誤植がなかったとしても、満足できないからといって、原稿直しを要求する人もいるのである。その場合に、タイミングによっては紙媒体では対応できないのである。
辞書も、何年も校正を重ね、やっと一冊の辞書ができるくらいである。辞書一冊作ると一人死ぬ、と言われたものである。
であるから、楽曲に関しても、同じ事が言える。例えば、伊福部昭氏は、完成した、と思ってほっとしても、一週間経ち、二週間経つと、ここはこうしたい、あそこはああしたい、と思ったそうだ。これは、すべての作曲家に共通していることのように思えてならない。
推敲を重ねたベートーヴェンも、直せるなら直したい、と思うところがあったのではないか(特にトランペット・パート)、と想像する。しかし、一旦刷ったものは、再版されるまで、どうすることもできない。
再版されても、そこで完成するとは限らない。もし『フィナーレ』のような楽譜浄書ソフトが、当時存在していたとしたら、おそらくほとんどの作曲かは、もっと推敲を重ねたのではないか。モーツァルトは、もっと作品が増えたのではないか。
尤もそれでも、完璧に本人が満足するものができるどうかは分からない。ただ、本人の納得の度合いは、紙媒体とは全然異なるであろう。
ブルックナーのシンフォニーのように同じ楽曲でいくつかの版が作られたりした場合もあるが、だいたいは、一旦、紙に書かれたり、印刷されたスコアーに手を入れる気持ちはあっても、実際問題それを実行するのは困難、ということがほとんどなのではないか。
そもそも、世の中に完璧なものはない。にも関わらず作曲家の残したスコアが完璧と思う根拠はどこにあるのだろう。
ゆえに、原典至上主義は、作曲者を過度に崇拝しすぎのような気がしてならない。