今日のグルーヴ〈469〉
気がついたら、スーパー、コンビニ、電気量販店の各種ポイントカードが溢れるほど貯まっていた。財布はお札でなく、ポイントカードの厚みで壊れそうである。
先日、遂に、差し出すポイントカードを間違えた。それ以来、ポイントカードを選んで探すことを放棄し、コンビニの店員に聞くことにした。
「おたくは何のカードでしたっけ?」
「~カードです。」
そう言われても持っていないものもある。たぶんないと思いながらも聞いているのである。
すべてのコンビニのポイントカードを揃えるのは、混乱に拍車をかけるようなものである。買い物のたびにポイントカードを探すのは何か時間を無駄にしているような気がしてならない。
しかし、何故かポイントが付くのは嬉しい。電気料金もポイントになるし、電気量販店で貯まったポイントで買い物が出来るのも嬉しい。
ゆえに、レジでカードの入っている財布を忘れたことに気づくと、もの凄く悔しい思いをする。しかし、忘れたと思ったカードが見つかったとき、何故か嬉しい。
この嬉しいという感情は、何の価値観からくるのだろうか。いずれにしても嬉しいという感情自体が人間の購買欲だけでなく、経済活動やあらゆる行動の源になっているのだろう。
ポイントが貯まれば、買い物もできるようになる。ところで、これは一種の仮想通貨なのではないか。尤も今のところ、二円とか三円といった端数をポイントで振り替える程度の慎ましい使い方しかしていないが。でもなんとなく嬉しいのである。
いまいち、仮想通貨というものがよく分からないが、仮想通貨だけでなく、現状の紙のお札も、信用で成り立っているのだという。
確かに、紙切れ自体に価値があるとは思えない。そう思うと、我々は危ういものに頼って生活しているようなものである。
では、金(きん)はどうなのか。金には価値があるらしいが、では何故価値があるのか、考えると不思議である。見た目が美しいから、なのか? 金(きん)でなくて、真鍮ではいけないのだろうか。
学生時代、吹奏楽コンクールで金賞が欲しくてひたすら練習した。何故、金にそんなにこだわるのだろうか。演奏に金銀銅とレッテルを貼ること自体そもそもおかしいのであるが、しかし、分かっていてもやっぱり金がいい。この心理はいったい何なのか。
金も言ってみればブランドである。レッテルとはいえブランドである。これは、人間の心理が作り出したものである。絶対的な価値というものはないのかもしれない。価値を作るのは人間の価値観である。すべて自分の心次第である。