top of page

今日のグルーヴ〈465〉

スポーツの世界では、時々、腑に落ちないというか、理不尽というか、不条理な事が起こる。


例えば、かつて大鵬が連勝を止められた一番であるが、ビデオを見る限り明らかに、相手力士の足が先に出ていたし、インタヴューでも、足が出たことは認めていた。にもかかわらず、大鵬は負けになった。この一番がきっかけで、物言いにビデオが導入されることになった因縁の一番であるが、国民の誰もが見ていて、事実は明らかなのに、判定が覆らないのは不条理そのものではないか。


初代貴乃花が、北の富士に浴びせ倒されそうになった時、ひねり腰でうっちゃりのように北の富士に先に手をつかせた一番、行司は、貴乃花に軍配を上げたが、勝負審判が、北の富士の手は、かばい手であると判断して、行司差し違えにした。行司は、絶対に自信があったのだろう。あり得ないほどの剣幕で時間をかけて、後に涙の抗議と言われるほどの、命がけの説明を行なったが、結局判定は、行司差し違えという結論で終わったのである。


何年か前から、制限時間いっぱいでの立会いで、両手をつく蹲踞でなくてはいけないということになり、それが金科玉条のごとく言い続けられている。これが相撲の基本であり、かつてそういう立ち会いをしていた、というのがその理由であるが、このルールのために、立ち会いの呼吸は逆に合わなくなり、時間がかかってしまっている。


何故ならこのルールのために、立ち会いの勢いは削がれ、仕方なく力士は自分のタイミングで立ち会い、かつ相手のタイミングを外そうとすることになるからだ。立ち会いの瞬間の最高の緊張感とその解放からもたらされるエネルギーは削がれる一方である。まるでグルーヴを堰き止められている感じである。


昔は、きちんと両手をついて立ち会った、とよく言われているが、昔のビデオ、特に昭和35年頃の栃若時代のビデオを見ても、まったく手をついていない。もっと昔は手をついていたのかもしれないが、知らず知らずのうちに自然と変化しているのだろう。そもそも、手をついてからでは勢いがつかないのではないか。それを無理矢理、昔に戻せ、というのは、なんのノスタルジーなのだろうか。


私は白鵬のファンではないが、それでも近頃の、白鵬に対する、張り手とかち上げの批判。これなどは、難癖としか言い様がないように思えてならない。張り手も、かち上げも、相撲のルールに則った技である。かつて大鵬もかち上げはやっていた。それを白鵬にだけ対してクレームをつけるのはおかしくないだろうか。横綱は品格あるべき存在だから、張り手と、かち上げはやってはいけないというのは個人的な主観である。批判には、その背景となるものがあるからかもしれないが、もしそうだったとしたら、人が弱ったときに、かさにかかって別の案件から批判するのは卑怯である。


ルールに関して、かつて高校野球の地方大会で、ホームランを打った打者がガッツポーズをしたところ、審判が、高校生にあるまじき行為といった理由で、そのホームランを無効にしたことがあった。まるであり得ない話で、これなどは、審判自身がルールを無視しているのではないか。個人的な主観や価値観がルールを凌駕しているのである。


同じく高校野球で、あの松井秀喜選手が、5連続敬遠を受けたとき、世の中はこぞって、相手チームを批判したが、敬遠はルールに則った行為である。それを批判するのはお門違いなのではないか。1回ならよくて5回はよくないと誰が決めたのか。


横綱としての品格とよく言われるが、この品格は漠然とした概念である。品格という漠然とした概念は、個人の主観で客観性はない。むしろ、横綱の品格はどうあるべきかを語る人にこそ品格が求められる。


このような不条理は、相撲の世界に限ったことではない。人間社会の象徴なのだろう。

理想や価値観というのは、時代とともに変化する。ゆえに不条理は世の常である。

もっと言えば、人類の歴史そのものが不条理の連続である。

理想や価値観に縛られている限り、不条理からは逃れられない。

タグ:

おすすめの投稿

最近の投稿

アーカイブ
Follow Us
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
タグ検索

© 2014 by アッコルド出版

bottom of page