今日のグルーヴ〈434〉
グルーヴが、ずれから生み出されるものであるならば、人生はあらゆる場面でグルーヴそのものである。
人との関わりにおいて、ぴったりユニゾンということは基本的にあり得ない。意気投合という言葉はあるが、それをも実は適度なずれがもたらしたものであるに違いない。
であれば、人生において人とのずれというものには様々なものがあるが、基本的には歓迎すべきものであろう。
例えば、意見のずれ、相違というものは常にあり、我々を悩ますが、実はこのずれこそが弁証法を生み出すものであるから、逆に言えば無くては困るものである。
しかるに、国会に於ける質問答弁というものは、あらかじめ質問内容が知らされ、それに対して答えも準備されているものであるから、ここに有機的な弁証法が成り立つようには思えない。
それでも、準備仕切れないものに関しては、多少なりとも緊迫感を感じるが、結局、弁証法的な次元の高まりというものはあまり期待できない。
最終的に徹底的に意見の一致を見ることが無いとき、かつては牛歩戦術があり、今でも乱闘がある。そこには、もはやグルーヴはない。あるのはカオスである。
しかし、正直、あのようなカオスを観る事は嫌いではない。建前としては、いい大人がみっともない、とか、子供達に対して顔向けができるのか、とか言ったりするが、本音では、もっとやれ、という気持ちがなくはない。
グルーヴに行き詰まったとき、有り難いことに、そこにはカオスがある。カオスは新たなグルーヴを生み出すものである。だからこそメリハリがあって面白いのではないか。
実際、音楽においても、表現の一つとしてカオスというものはある。
ただし、演奏そのものがカオスでは何も生み出さない。生み出されるのは恐怖しかない。