今日のグルーヴ〈421〉
楽曲、楽譜に正しいとか、正しくないとか、完成というものがあるのだろうか。それを考えさせてくれたことがかつてあった。
ある楽曲をオケで練習しているときに、楽譜を明らかに読み間違えている(少なくとも常識でない読み方)人がいたので、説明したところ、いや、これでいいんだ、と言って、どうしても聞かない人がいた。
私一人では説得力がないのは残念だが、複数の人に説明をしてもらった。しかし、それでも自分の読み方が正しい、と言うのである。いや、それでも間違っている、と言ったら、だったら楽譜が間違っている、との仰せだった。
上記の話の場合、楽譜は間違ってはいなかったが、百歩も千歩も譲って、仮に楽譜が間違っていたとして、だからといって、自分一人が、楽譜に書いてある通りを演奏しているのだ、と主張して、たとえ周りとずれても、自分の思う楽譜通りというものを演奏するのだろうか。
ここに楽譜を盲目的に信用することの弊害の特殊な例の一端を垣間見ることができる。
ところで、楽譜を作る仕事をした者の端くれとして言うが、楽譜が間違っているということは、残念ながら確かにあり得る。
実際、有名な誤植というものもある。楽章の順番を間違えているものすらある。
イザイの無伴奏には、小節内の拍数の勘定が合わない版もある。
人間が作るものだから、当然間違いというのは起きうる。ゆえに、楽譜に全幅の信頼をおいてはならない。演奏者は、まず、楽譜の間違いを見つけるところから始めなければいけないのである。
しかし、話はあらぬ方向に展開するが、パート間のずれといった明らかな楽譜の間違いは別として、そもそも、楽譜に正しい正しくないという概念が入り込む余地があるのだろうか。
作曲者ですら、迷いに迷っているのである。
ラヴェルが、自作を指導しているときに、これは、どちらの音ですか?と聞かれたのだが、ラヴェルは、どちらでもいい、と言った、という逸話もある。
伊福部昭さんも、楽曲が完成した、と思っても、一週間くらい経つと、ここは、こう付け加えたい、とか、あそこはこうすべきだったとか、だんだん思い始めると言われていた。
楽曲に完成はない。正確に言えば、楽譜に完成はない、と言ってみたい。
そもそも楽譜に作曲者の意図が全部書き込めるとも思えない。作曲者の意図というものがあるのさえ、疑わしい場合もある。
楽曲は育てるものである、という考え方に立てば、楽譜はメモである、と考えた方が、逆説的に実りあるのではないか。
楽譜=命とか、楽譜=神のような考え方をするのであれば、例えば楽譜浄書ソフトのフィナーレのようなソフトに演奏させた方が、その考え方に近いのではないか。
しかし、明らかに人間が演奏したものとコンピュータが演奏したものとは別物である。
作曲家も、作曲をし始めたときに、完成というものを狙っているのだろうか。勿論、狙っているのだろうが、結局妥協、ということもあり得るのではないか。
実際、ベートーヴェンのトランペットのパート譜は、当時の楽器の能力が不十分だったため、妥協して書いたとしか思えないようなところがたくさんある。
楽譜からは音は何も出ない(フィナーレは出るが)。そこで作曲者としては、自作が音になった時を何よりも大切にするのである。そして、音になってはじめて楽曲が完成したと実感するのではないか。
つまり、楽曲を完成させるのは演奏者による演奏である。そのときに、楽譜を崇め奉るのでは、逆に作曲者の意図に反するのではないか。