今日のグルーヴ〈389〉
日本がオチの文化とすれば、イタリアは、伏線の文化である。
どちらも伏線とオチがあることには変わりないわけで、結局は同じ事を言っているのに過ぎないようにも思えるが、日本がオチ、つまり結果を重んじるのに対して、イタリアは伏線、つまり経過、過程を楽しむことを重んじているのではないか。
日本は、最初からオチが決まっていて、そのための伏線を張るのに対し、イタリアはもしかすると、いろいろ伏線を張って、どのオチになるのかは、その時次第、ということなのではないか。
例えば、日本の大喜利は、オチを決めておき、そのオチのために、伏線、つまり、~とかけて~と説く、わけである。全てはオチのための準備である。イタリアの場合、伏線を張ること自体が、一種のサービスであり、手当たり次第を張ることによって、あるいは伏線を修正することによって、オチが当たる確率を増やししているのではないか。
つまり、どこにオチようが、伏線を楽しむことの方が重要なのである。その結果、イタリアの方がオチの範囲、可能性が広く、オチが複数に拡がっていくのである。
結果にこだわるより、たとえ結果が出なくても、とにかく伏線を張ることが大切なのではないか。所詮、オチが成功するか否かは、最初から分かるわけはないのである。
というより、最初から成功することが分かっていたら、つまらないのではないか。分かりきったことをすることに何の意味があるのだろうか。予定調和がつまらないのと同じである。
ただし、伏線を張ると言っても、考えたり煮詰めたりしても、おそらく面白い伏線は、出てこないだろう。殆ど無心に近い状態、フリーになった状態のときに、ふっと浮かぶものであるように思う。酒を飲んだ時の状態に近い。
常識から解き放たれたとき、自由な伏線を張ることができ、無限のオチを迎えるのではないか。