今日のグルーヴ〈364〉
映画や動画にも、心動かされるものには、当然ながらグルーヴ感はあるだろう。
では、絵画や彫刻のような静止しているものはどうなのか。
あるいは建築物はどうなのか。
音楽にグルーヴ感があったりなかったりするのと同じように、静止しているものにも広義のグルーヴがあったりなかったりするに違いない。
それは、経験的に体感しているのではないか。
例えば、かつては活気のあった商店街が、何らかの事情で、閑散としてしまった情景に遭遇することがある。
明らかに、活気はグルーヴであり、生気の無い閑散として状態にグルーヴはない。
家は、人が住まないと、腐っていくという。実際そうである。生まれつきグルーヴを持っている人間がいてこそ、家は生きていくものであり、呼応してグルーヴを生み出す。
そのような事を考えると、動静関係なく、グルーヴはあるはずだ。
ゆえに、絵画や彫刻にもグルーヴあるに違いない。
実際、心を動かされる絵画や彫刻に遭遇するというのは、グルーヴがあるからなのではないか。
窓から見える景色、あるいは大自然は、一見、静止しているように見えるが、言うまでもなく、常に変化し続ける。
諸行無常ということである。しかし、諸行無常の一瞬を絵画や彫刻は、書き留めるのである。卓越した芸術作品には、その一瞬にグルーヴを表現する。
諸行無常という理念に対し、我々は空しさや儚さを感じるが、むしろそれは誤解なのかもしれない。諸行無常は、まさにグルーヴの証明である。