今日のグルーヴ〈354〉
散文は、俳句や短歌のような定型や韻律や詠嘆を持たないが、文体というものがある。
勿論、散文も定型や韻律や詠嘆を持っていけない理由はないだろう。
言葉の選び方、削り方は、俳句に学ぶところがあるような気がする。
五七五しかない俳句では、極力いらない言葉を削らなければならない。その行為が頭の中を整理してくれるし、感性、感受性を磨いてくれるような気がする。。
勿論短歌もそうなのだろうが、ただ短歌の方が、言葉を捨てないで救ってくれるような気がする。だから、どちらかというと、俳句より、短歌の方が好きなのである。
削って削って、美しい彫刻のように仕上げていく孤高の俳句に対し、短歌は思いの丈を述べるスペースを作ってくれる人間臭さがある。
万葉集や古今和歌集には、傑作が目白押しだが、小倉百人一首は、選んだ人のセンスが抜群なのか、全てが絶品である。
子供の頃、正月には家族で小倉百人一首で歌留多を楽しんだものだ。母が読み手で、いつも読むことを楽しみにしていた。私は意味も分からず、数多く札を取ることばかり考えていたが、結局はいつも負けていた。全てを完璧に暗記しているようでないと勝てない。
この行為が、知らず知らずのうちに、日本語の美しさや奥深さを潜在意識に植え付けることになるのだろう。
散文を書くときに、俳句や和歌での体験がきっと役にたっているのだと思いたい。散文も削れば削るほど、クオリティが良くなる、と言われているが、私の場合、削っていくうちに、結局何も書かない方がましだった、ということになりかねないので、あまり削ろうとはしない。ただ、語順の入れ替え、文章の入れ替えは頻繁に行なう。
文章の達人と言われる谷崎潤一郎や浅田次郎の作品を読むにつけ、散文にも文体の他に定型、韻律、詠嘆のようなものがあるような気がする。
俳句や短歌が厳格な形式に則ったモティーフであるとすれば、散文は正にソナタ形式であり、変奏曲であり、交響曲である、と私は思う。