今日のグルーヴ〈336〉
グルーヴはそこら中にある。
スピーチにも演説にも、芝居にも、漫才にも、落語にも、そして文章にもある。
音楽のグルーヴはそもそも音楽イコールグルーヴなのではないか、と言いたいくらい、それは命そのものであるが、演説や言葉のグルーヴは諸刃の剣であるかもしれない。
政治家の演説であるが、人々は内容よりもむしろグルーヴ感のある演説に惹かれるのではないか。
極端な事を言えば、内容は二の次で、その演説者が、どのくらいグルーヴを持っているかで、人々は共感していくのだろうと思う。
ゆえに、言葉のグルーヴは恐ろしいのである。何故なら、人々は主義主張やイデオロギーといったものより、勢いのある人、つまりそれはグルーヴ感であるが、その持ち主に心を鷲づかみにされてしまうからである。
例えばヒトラーの演説である。今聞くと、ヒトラーの演説は、何か恐怖のようなものを感じるが、それは後からだから何とでもいえる。同時に、あの捲し立てる演説からは強烈なグルーヴも感じるのである。
事実、当時のドイツ人の多くは、彼の演説に熱狂したのである。それは演説の内容もさることながら、そのスピーチのグルーヴに熱狂したからなのではないか、と思えてならない。
人々は、グルーヴのある人に共感を覚え、もっと言えば、オルグされてしまうのである。
ヒトラーがヴァーグナーの音楽を好み、それを活用したのは、偶然では無いだろう。彼も音楽の持つオルグ性をよく知っていたに違いない。
オルガンとオルグ、オルガナイザー、皆、同じ語源である。共鳴、それは、純正律によってもたらされるだけではなく、グルーヴによっても、もたらされるのである。
音楽はともすると政治利用されるが、常にそこと闘う作曲家、演奏家はいつの時代にもいたのである。一方聴衆は、気づかないうちにオルグされていることが多々ある。尤も、オルグされるならそれでも結構、あまりにも素晴らしい音楽だから、と居直っている頼もしい聴衆もいるが。