今日のグルーヴ〈325〉
かつては、楽譜通りに演奏することが、クラシック音楽の至上命題だと思っていた。
卓越したクラシック演奏家の演奏は楽譜通りだと思った。しかし何をもって楽譜通りなのか、これを定義することは難しい。
しかし卓越したクラシックの演奏家の演奏は、根拠も無く、楽譜通りに演奏している、と思ったのである。そして、楽譜通りの演奏は美しいと思った。
それは、ソロの演奏もオケの演奏も同様に思った。今日まで残っている古今東西のオケ作品は、取りあえず、楽譜通りに演奏するだけで、名演になるように書かれている、と思った。それは何の根拠もなく、そう感じたのである。
しかし、お笑い芸人の人達の某番組のパフォーマンスを見て、台本通りのつまらなさに辟易したとき、果たして、クラシック演奏の楽譜通りという演奏は、やはりつまらないのではないかと疑問に思った。
芸人さん達にも多少の流れ、台本のようなものがあるのかもしれないが、それは、あくまでも方向性だけを示しているだけで、ネタも大事だが、現代の芸人さんの主流は、基本的に、ネタを活かすパフォーマンス、咄嗟のもの、気転、アドリヴ、瞬発力、間(ま)、そしてグルーヴであるように思う。
クラシック演奏にも、同じ楽譜であっても、その瞬間にしか表現できないものがあるはずである。その表現をしないと、聴衆がコンサートやライヴに来る意味がない。
このような話になると、決まって作曲家を冒涜するのか、という話にいつもなるのだが、冒涜するつもりはない。むしろ、つまらない演奏をすることの方が冒涜になるのではないか。
別に目新しいことをあざとくやるわけではない。取りあえず、リハーサルは楽譜通り、台本通りになるだろう。しかし、本番には、リハーサルには絶対にない緊張感、一期一会感がある。
その独特な条件を活かさないと、本番の意味がない。
ではどうするのか。実に言うは易し、である。すなわち、完全にさらいこんだら、しばらく放っておく。そして、できるだけリハーサルは、音の確認程度にして、極々軽くする。
そして、本番は、初見のようなつもりで演奏するのである。
もう一つの方法は、暗譜していたら、感性に沿って、ほんの少し(ほんの少しである)フェイクするのである。
おそらくグルーヴ満点の演奏になる(はずである)。