今日のグルーヴ〈309〉
ベートーヴェンのシンフォニーに畏敬の念、畏怖の念を持って演奏したりすることは下手をすると大きな勘違い、誤解に繋がるように思える。
ベートーヴェンを、人の名前でなく、サーとかナイトといった勲位の敬称だと思い込んでいた、という人がかつていた。
これは正に日本のベートーヴェン教育の“賜”である。楽聖ベートーヴェン、と言ってみたり、クラシック史上最大の作曲家と言ってみたり(何が最大なのか分からない)、
何のためにベートーヴェンを奉ったのであろうか。実際、ベートーヴェンの事を良く言わないと、とんでもない、ということで抗議されることもある。
私は、ベートーヴェンは偉大な作曲家だとは思うが、だから、作品が崇高でクラシック史上最高の音楽、というふうには思えないし、そう思って演奏したら、それは重大な誤解なのではないか、と思うのである。
ベートーヴェンの九つのシンフォニーに対して、聴衆だけでなく、後に続く作曲家達も畏敬の念を持っていた。シューベルト、ブラームス、マーラー‥。
ブラームスは、ベートーヴェンを尊敬するあまり、最初のシンフォニーを作ったのは40歳を過ぎてからで、第1番など、ベートーヴェンの第10交響曲と賞賛されるくらいの力作である。
マーラーは、ベートーヴェンに畏怖の念を持つあまり、9番を作ると死ぬというジンクスを信じた。結局9番にあたるシンフォニーに番号を付けず、大地の歌というタイトルにし、死ななかったので安心して9番を作ったら死んでしまったのである。
ベートーヴェンに対して、畏敬の念を持ちすぎなのではないだろうか。ベートーヴェンを神のように崇め奉るのは、個人の自由だが、それによって彼の音楽を誤解してはいないだろうか。
彼は、本当は、ものすごくモダンでユーモアを好んだ人なのではないか。
メトロノームを作ったメルツェルに親愛の情を示したと言われる8番の第2楽章、そして、冗談音楽のようなフィナーレ。
私は、“英雄”のフィナーレも、“運命”のフィナーレも、第9のフィナーレも、冗談音楽に聞こえる。
嵐のようなフォルテの連打、ロックのようなスケール。
グルーヴそのものである。