今日のグルーヴ〈293〉
事故というのは、起きてはならないが、残念ながら必ず起きるものである。しかし、原子力の世界では絶対に起きてはならない。果たしてそのような事が可能なのだろうか。
国内で被曝事故がまた起きた。
甚大な被害をもたらした原子力事故としては、スリーマイル島、チェルノブイリ、そして福島第一原発が、すぐに思い浮かぶが、実際には、1940年代から、世界ではずっと何らかの事故が起き続けている。
そして1980年代からは、日本での事故が起き始め、2010年代になると、日本での事故が著しく顕著になる。
1999年の東海村の臨界事故の時は、国内で初めて事故被曝による死者が出て大問題となった。
チェルノブイリの事故の時、ヨーロッパで黒い雨が降ったという。その頃から、原子力に対する不信を私は拭えなかった。福島第一原発の事故で、その不信は確信となった。
事故というのは、どんな分野でも起きる。でも、あらゆる事故は減らす努力はできるし、しなければならない。しかし、ゼロにすることは不可能だ。何故なら、人間のやることに絶対はないと思うからだ。
それでも、原子力以外の事故による被害や損害、損失というのは、試算できる範囲であるそうだ。
しかしながら、原子力の事故は予測して計算ができないという。事故の規模も様々であるだろうから、放射能の汚染、被爆の規模、範囲などは、予測できないことは素人目にも想像できる。
ところで福島第一原発の廃炉は、30~40年後だという。結局、原子力は高いものにつくのように思えてならない。
それでも今ならまだ引き返すことができるのではないか。
オペラ『ドクター・アトミック』(作者ピーター・セラーズ、作曲ジョン・アダムス)では、原爆の開発に関わったロバート・オッペンハイマーの科学者としての苦悩が描かれている。
やれるか、やれないか、ではなく、やるべきか、やらないべきか、そこを本気で考えないと、取り返しのつかないことになるのではないか。
核の平和利用? それが本当に可能なのか。それとも我々は事故を覚悟して原子力を受け入れなければならないのだろうか。
子供達に未来を託す我々は、その苦悩を子供達に押しつけてはならない。