今日のグルーヴ〈287〉
作曲家でヴァイオリニストの故・玉木宏樹先生は、『本質』という言葉の意味は実は大変難しいのだ、と言われていた。
普通に意味を繙くと、物事の最も大事な根本の性質とか要素、ということになるのだろう。
ところで、何か問題が起きて解決する為には、問題の本質を突き止めるところから始めなければならない。
実際、本質が見えないと問題は解決しないだろう。本質が見えた瞬間、つまり、誰もが共通した本質の認識を持ったならば、その瞬間、問題のほとんどが解決したと言っても過言ではないだろう。
ところが最近、世の中や政治の世界で、何かの問題について対立すると、本質を取り違えている、とお互いに言い合う傾向がある。
何が本質であるか、という認識がいろいろあるので、世の中の問題はなかなか解決しない。
本質というのは、一つしかないはずだが、双方が、我の意見こそ本質、と主張するわけだから、どちらかが誤解しているか、双方共誤解しているか、どちらも本質なのか、のどれかである。
でも、どうやら本質というのは、いくつかありうるように思えてならない。物事には、様々な側面がある、ということはよく言われることだが、同時に、本質もいろいろな側面があるということである。
本質は、一つである、と普通は思うが、それは思い込みであるかもしれない。~が本質の一つである、という表現が必要になってくる。
かつて、よく、『世界で最も素晴らしい演奏家のひとり』といった表現をよく使ったものである。こういった表現はとても重宝した。素晴らしい演奏家を最大限に賛辞するために、世界で最高、といった表現を使うのだが、~のひとり、という表現を使うことで、他の演奏家から恨まれることはない。世界最高の奏者はたくさんいるのである。
話を戻すが、問題をとりあえず解決するには、本質をどれにするか、という本質選びの作業が必要になってくる。
となると、結局は数の論理で決めるしかないという、実に野蛮で原始的な方法をとらざるを得ない、衆愚主義にならざるを得ないということになる。
これが現代の人類の『本質』の一つである。