今日のグルーヴ〈286〉
哲学者の土屋賢二先生の週刊文春の連載が今週号で1000回となった。
書き始められた頃、二、三回でネタが尽きると思ったそうだ。そこから継続されて、1000回というのは驚異的である。
私も「第九」で初めてトランペット・パートを吹いたときに、最初のフレーズですべての肉体的精神的エネルギーが尽きてしまったことがある。
このあと、最後まで吹けるのかどうか、恐怖のどん底に落ちたことがある。その後、鏡を見たわけではないが、自分の顔は般若の面になっていた。その時に、力尽きたときからが本当の始まり、という悟りのようなものを覚えたことがある。
世紀のトランペット奏者モーリス・アンドレは、コンサートの前に、三時間くらいの散歩をして、故意に体を疲れた状態にしたそうだ。邪念をなくし、無駄な力が抜くために、体をへとへとの状態にしたのだろうと思う。
正に終わったところが始まり、なのである。
現在の私はまだ力尽きていないので、まだ何も始まっていない。
記念すべき1000回では、何か特別な事を書かれるのかと思って期待したのだが、通常のエッセイが展開された。
と最初は思ったが、後半の物語形式による、怒りを押さえる画期的な方法に、何かツチヤ哲学の神髄真骨頂があるような気がしてきた。やはり記念すべき1000回である。
具体的には読んで戴くしかないが、最後に般若心経の最後の一節、
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
「ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか」の部分が引用されているのが、意味深である。
般若心経を正確に理解するのは大変難しい(私には)。
暗唱して唱えているうちに、意味がだんだんと分かってくると母が言っていた。そうかもしれないが、その時間が惜しい。
いろいろな訳を読んでみるに、結局は、無念無想で、歌いなさい、音楽しなさい、楽しもうよ、と言っているのだと私は思うことにした。