今日のグルーヴ〈280〉

クラシックのコンサートの聴衆は、だいぶ前から、高齢化しているのは言うまでもない。しかも大ホールのトイレは男女とも長蛇の列である。クラシックのコンサートでトイレの長蛇の列というのは、残念ながら鑑賞意欲が萎える。グルーヴどころではない。


しかし、1986年3月26日の東京文化会館でのショルティ指揮シカゴ交響楽団の演奏(マーラーの五番他)は、グルーヴそのものだった。当時のシカゴ交響楽団は、見た目にも、管も弦もご年配の方ばかりで、よくこんな大きな音が出るものだ、と度肝を抜かれたものだ。

当時、ロックのコンサートのような大音量、という評論もあった。確かに曲も曲だが、当夜の演奏以上の音量は聴いたことがない。


当夜のコンサートの聴衆は、どういうわけか、私の周りの聴衆は、外国人(アメリカ人?)が多く、しかも皆正装しているので、普段着で来ていた私は何かとても居づらい感じだったが、マーラーの五番が終わった瞬間、会場中の見たことのない爆発的なブラボーには演奏以上に感動し、正装の聴衆のはじけるブラボーに凄まじさを感じた。隣にいた外国人の紳士も、会場に驚愕し、驚喜していた。本当のブラボーはこういうものだろうと思ったものだ。グルーヴである。


しかし、反対にグルーヴの対極にある演奏もある。マーラーの一番の第四楽章の最後で、ホルン・セクションがスタンドするところがあるが、この場面でホルン・セクションがまったくしらけている演奏を他のオケで聴いたことがある。


何か、立つこと自体が恥ずかしいことなのか、あるいはなんで立ってまで吹くのかといったふて腐れた雰囲気が如実に出ていた。さらにまったくスタンドしない演奏まである。まったくグルーヴを意識しない演奏である。ならば何故ホルンを吹くのか、オーケストラをやるのか。


ここはマーラーの指定である。トランペットやトロンボーンをかき消すくらいで、と言っているのである。楽譜に忠実が好きならば、マーラーの書き込みにも忠実であるべきではないのか。


消極的な演奏は、ダイナミックスの幅の狭さ、音色の少なさは、演奏のモノトーンをもたらし、グルーヴ感ゼロの演奏になる。



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