今日のグルーヴ〈271〉
昔は、一糸乱れぬ演奏が素晴らしいと思っていたが、一糸乱れぬ演奏にも気持ち悪さがあることを知った。
一糸乱れぬ演奏でも気持ち悪くない演奏と気持ち悪い演奏…何がどう違うのであろうか。それはおそらく、一糸乱れぬ演奏においても個性(個人の意志)が表現されているか否かではないかと思う。もたらされる演奏は似て非なるものに違いない。
かつてカラヤンは、オーケストラをドライブするのではなく、キャリーするのだ、と言ったらしい。例えれば、馬に騎手の存在を感じさせないで自由に走らせ、でも結局はそれが騎手の意図するものである、ということらしい。
素晴らしい指揮者は、すべてを自分の思い通りにしようとするのではなく、すべての人の個性を尊重する、つまり奏者に任せられるかどうかにかかってくるように思えてならない。
これは、あらゆる社会で言えることだろう。あらゆる人に自己表現の機会がある社会、民主主義というのは、こういうことを言うのではないだろうか。そうでない社会はいつか破綻するだろう。それは歴史を繙けば明らかである。