今日のグルーヴ〈269〉
ヴィトゲンシュタインの哲学によれば、世の中の常識も疑ってみることにも意味があるかもしれない。何故なら、もし常識が間違っていたら、我々は悩まなくてもいいことを悩んでいるかもしれないからだ。
すべての哲学的問題が起こるのは、言葉を間違って使っているかららしい。しかし、我々は、言葉の意味を誤解しているとは夢にも思っていない。でも言葉の意味を正確に理解すると、哲学的問題はすべて解消するのだという。
同様に、我々は常識を漠然と疑っていないが、よくよく考えてみるとあやしいものもある。何故なら常識は、時代状況によって正反対になるからだ。
例えば立身出世は、封建社会では秩序を乱すものとして否認されていてたが、明治時代になると、欧化政策の下、奨励された。しかし、現代では、そもそもこの言葉自体がホコリをかぶっている。
江戸時代、武士は、妨害行為を受けたら、無礼打ち、切り捨て御免という特権があった。このような制度が現代にあったら、これだけ人口密度が高い時代、命がいくつあっても足りない。
身体に良いとされる食生活や栄養素の常識も、どんどん変化しているように思えてならない。例えば、風邪に良いとずっと思っていたビタミンCだが今では効果はない、とされている。
かほどに、常識というのは頼りにならない。しかし、にもかかわらず、ともすると今現在の常識に、身動きができないことが多いのではないか。
例えば、本業よりも趣味に打ち込んだとする。これは漠然と非常識であると感じ、後ろめたい気持ちになる人もいるだろう。しかし、仕事より趣味に打ち込んで何が悪い。と開き直ってみると、思ってもみなかった解放感がある。あるいはむしろ本業にいい効果をもたらすことも期待できるかもしれない。
平和はかけがえのないものとして最も大切にしなければならない、という常識がある。しかし、平和の為なら戦争をする、という訳の分からない愚かなことを世界中がしている現状を顧みるに、平和という言葉に、我々は幻惑されているのではないか。平和という言葉ほど危険な言葉はない、とも言えるのではないか。