今日のグルーヴ〈177〉
奏法の本はいろいろあるが、本から学ぶことは至難の業である。何故なら、誤解を生じる可能性が大であるからだ。その意味で独学は危険なところがある。
私は、かつてヴィオラを独学でやっているご年配の女性のヴィオラとその弾き方を見たが、ヴィオラが弾けない私でも、どうしようもない状態であることが一目で分かった。
では、先生に就くことがベストかというと、師事した先生とも相性もある。その意味で、楽器というのは、残念ながら、ほとんど運次第である。
音楽に限らず、世の中はすべからく、運不運はある。
しかし、である。
かつて才能教育研究会の鈴木鎮一氏は、どの子も日本語を話している、という事実から、どの子も育つ、という真理を発見した。この理念そのものは未来永劫真理であろう。
また公文式の公文 公氏は、平凡のたゆまぬ継続こそ非凡なるものを生むという真理から、教材を開発されたと聞いたことがある。
どちらの理念も、誰もが卓越した技術や能力を持つことができる、ということを主張している点で共通している。
これは真理であるに違いない。同じ人間として生まれて、能力や技術の差というものが、天命としてあるはずがない。
では、どうしたらよいのか。
問題意識を感じたり、限界を感じたり、どん底を感じたりしたら、そこがチャンスである。多くの人はそこで諦めてしまうが、そこが一番のチャンスであることに気づいていない。実に勿体ない話である。
私はインターネットの世の中になったおかげで、誰もが、幅広く情報を得られる状態になったことで、楽観もしている。本からの独学より、確実で安心である。
かつてネットの時代よりずっと前に、情報化時代とか言われて、これからは情報の時代だと皆息巻いていたが、それは本当の意味での情報化時代ではなかったと私は思う。
情報が公平に行き渡ってこそ、本当の意味での情報化時代であろう。まだ、完璧ではないかもしれないが、私が子供の頃より、遙かに必要な情報が行き渡っている。
たいていのことはネットで知ることはできる世の中になった。奏法上の企業秘密など、有名無実のようなものである。
私は2000人以上の演奏家や指導者に会って、様々な音楽に関するヒントを伺ったことがある。
その意味で、私は、誰も受けたことのレッスンを受けたと自分で思っている。その体験を広く世の中に伝達することが自分の使命だと思っていたし、それはこれからも変わらない。